監督はデヴィッド・ドル―リーに変更。脚本にはリンダ・ラ・プランテが復帰。
前回、殺人課をやめたテニスンが、今度は風紀課に転属。そこで売春の一掃計画を任されるが、ちょうど売春関連の殺人事件が起きて、そちらの捜査がメインになっていく。
題材や真相、背景の組織的隠ぺい体制については、EP1とEP2を足して2で割ったような感じで、あまり新鮮味がない。
また、冒頭から情緒的な音楽が流れ、並行モンタージュによるドラマチックな雰囲気の醸成が企図されているようにみえる。ざっくり言えば、ここにきてだいぶ通俗化してしまった感は否めない。逆にヘレン・ミレンの役付けもより親しみが増してきたとも言え、着ている服も暖色系のスポーティなものが増えた。
ショットとしての見どころはあまりない(撮影監督も変わっている)。一方で、各配役の表情やお互いの関係性は単純さを拒否し、本EPの見どころになっている。
特にEP1でヘレン・ミレンにチームから外されたトム・ベルが、毎回微笑を浮かべるので、何を考えているのかがわからない、というのがスリリングだ。
カミングアウトする刑事、HIVの子供に手を噛まれ不安を抱える刑事、その他やたらサイドエピソードが出てくるが、それほどしっかり決着をつけないままにしておくのも、このシリーズの良さかもしれない。
2021年3月14日日曜日
第一容疑者 EP3
2021年3月11日木曜日
第一容疑者 EP2
監督はクリストファー・メノールからジョン・ストリックランドに変更され、またエピソード1の脚本を担当したリンダ・ラ・プランテはStoryLineのクレジットになり、脚本にはアラン・キュビットがクレジットされている。
ヘレン・ミレン演じるテニスンが、男性優位の警察組織で孤軍奮闘するというエピソード1を経て、人種問題にフォーカスをあてているという物語上の要請も、これらクレジット変更に関係しているのであろう。タバコを吸う姿があんなに決まっていたヘレン・ミレンが禁煙しているという設定も、新しいものをつくろうという意気込みを感じる。
冒頭から模擬尋問が始まる。ヘレン・ミレンはすっかり優秀な女性警部という感じで受け入れられており、それはエレベーターにおけるヘレン・ミレンの余裕のある表情からもうかがえる(エピソード1では、エレベーターで長身の男性に囲まれ窮屈そうにする様子が何度か描かれていた)。
さて、物語上の力点は、人種問題におかれているのだが、これがなかなか複雑にして一筋縄ではいかない。まずヘレン・ミレンが冒頭で黒人の巡査と一夜の関係を持ってしまうことが全編において話を拗らせる要因となるのだが、そのヘレン・ミレンにしても、人種的平等の観点からいって相当危うい。オズワルド巡査に対しての「黒人だからって特別扱いされたい?」というセリフは、エピソード1で自身が直面したジェンダー不平等の問題を自ら再現してしまっているし、対するオズワルド巡査もまた、終盤で自ら「自分はココナッツなのかもしれない」と回顧するように、アイデンティティを理由にしたくないという信念が空回りして、アフリカ系の少年に対して過剰なまでに暴力的な態度をとってしまう。あるいはそもそもオズワルドがチームに加入した理由自体が、警察組織の政治的な配慮である(このあたりは最近のJOCの体たらくを思わせる)。
オズワルドに威圧的尋問をされて錯乱状態に陥る少年が、"I can't breathe"と叫ぶのが印象的だ。
エピソード1が、同一画面に複数の人物が出たり入ったりする演出が多用されていたのに対して、本作の演出上の特徴は、画面の奥行をより意識した設計だろう(※)。例えば白骨遺体が発見され、その周辺に刑事達が聞き込みを行うシーンでは、手前と奥の家それぞれに車が止まって、刑事達が降りてやってくる。ピントは手前の刑事にあてられるが、奥の家に行った刑事が、そこで強引に住人を連行しようとして住人が大声を出す。それを見て、手前の刑事も慌ててそちらに走っていく、というような演出がとられる。手前がブロンドの若い刑事で、奥が長身のレイシズムを隠さない刑事である。
このコンビが中盤に、数年前の地元コンサートについてスタジオに聞き込みに行くシーンでも、やはり同様に、奥のレコーディング室で言い合いの喧嘩が始まるというショットになっている。
画面の手前、奥、という関係性で、本EPで最も印象的な演出は、白骨遺体の情報から粘土で復元した像を、現場の隣の家族が見に来る場面。そこで息子のトニーが明らかにその像を見て取り乱し、母親に支えられながら椅子に座るのだが、ここでカメラは、この粘土像を手前に舐めながら、取り乱すトニーをピンボケで映す。ここではこの粘土像が、その空間を強力に支配していると言える。
終わってみれば、なかなか手の込んだ筋立てで、伏線がものの見事に回収されていくわけだが、素晴らしいのが、回想の再現シーンが一切ない点。
人物達の回想や独白によって語られる内容は結構複雑なのだが、演出はあくまで独白する者、それを聞く者の姿を捉えることに専念する。これがこのドラマを非常にクラシカルで締まりのあるものにしている重要なポイントだろう。
※ 同一画面上で複数の人物が出たり入ったりする演出では、運命的な出来事の連鎖が強調されるだろう(例えばテニスンの前任者が心臓発作で他界、テニスンに出番がまわってくる、というように)。
2021年3月7日日曜日
第一容疑者 EP1 後編
後編は、面通しの場面から始まる。
ヘレンミレンが持つタバコの煙、その奥で事態を見るトム・ベル。面通しでは結局思惑通りに行かない。そうとわかった瞬間に、トム・ベルがさっさと部屋をあとにするのを画面奥に捉えたショットで処理。冒頭から痺れるような展開である。
後編の見せ場は刑事課総出で容疑者マーローを追い詰める尾行シーンだろう。マーローがカフェに入っていったタイミングで、自転車で尾行していた刑事とタクシーに乗った刑事が交代する場面をはじめとする小気味良い演出。
あるいは男性社会で戦う女性たちの連帯も見え隠れする。
オールダムの娼婦たちとのやり取り、ヘレン・ミレンとゾーイ・ワナメイカーの単純には済まない緊張感のある関係性。
感心したのが、ヘレン・ミレンがマーローを尋問している間、部屋でほかの男性刑事たちが待機している場面。刑事達は、「あの変態野郎め」と口々にマーローを罵る言葉を吐き合っては、お互いの「良識」をアピールするのだ。実際には、情報屋と関係を持っていた刑事の存在や、当初のヘレン・ミレンの抜擢に反対していた刑事などの存在を考えれば、この描写が実に皮肉をもって描かれていることは明白だ。男性のホモソーシャルなグループが、平常時に女性蔑視的な態度を隠さない割に、何かあると途端に女性の味方になる、あるいは加害男性を憎む、という傾向をうまくとらえている。
2021年3月5日金曜日
第一容疑者 EP1
1991年に放送されたイギリスの2時間ものの刑事ドラマ。その後、何回か放送され、今に至るまで10個ぐらいのエピソードがある。今回はその第一話。
ヘレン・ミレン演じるジェーン・テニスンは、圧倒的男社会である警察組織において、警部という肩書でありながら、任されるのは書類仕事ばかりで、重大な刑事事件はすべて男性の刑事達が任される。それが、とある事件の担当刑事が心臓発作で急死したのをきっかけにテニスンが事件を担当することになるが、事件の捜査だけでなく、女性の元で働くことが全く容認できぬ野郎ども達の嫌味や妬みとも戦うというもの。
これがものすごくシックな作りで、渋くて渋くて、あまりの渋さに痺れる素晴らしい刑事ドラマである。おそらく当時としては先見的な題材であっただろうが、フォルムはまるで70年代アメリカ映画、あるいはシドニー・ルメットの刑事映画のような、必要最低限の説明にとどめながら、人物の仕草、視線のアクションで物語をどんどん進めていくそれ。無意味なBGMもなく、誇張されたクローズアップもない(自然なカメラワークのなかで寄っていくショットは多い)。ヘレン・ミレンがタバコをふかすショットだけですでに大満足だが、とにかく演出が素晴らしい。
とりわけ驚かされたのが、被疑者の家を、向かいの家の窓から刑事達がカメラで偵察していると、使用人(?)が間違えて明かりをつけてしまって、ちょうど玄関のドアを開けた妻にバレてしまう、という件の演出。
凡庸な作り手であれば
「妻が玄関のドアを開けて夫を中に入れる⇒使用人が明かりをつける⇒刑事達が慌てて明かりを消させる⇒刑事達が振り向くと妻がこちらを見ている」といった処理になるであろう。もしかしたら妻が気づく場面は、改めて被疑者の家の中にカメラを置いて撮るかもしれない。
しかし本作では、まず被疑者の妻がドアを開けるシーンを撮り、そのまま妻が何かに気づいてふと顔を上げるショットを撮り、するとカットが割られて、慌てて明かりを消させる刑事の姿を妻の視線ショットで映す(つまり観客も妻もここで初めて何が起きたかを知る)、という処理をしている。まず使用人が間違えて明かりをつけてしまう、というショットがない。我々が目にするのは、明かりをつけたあとに慌てて消す場面だけである。こんな「不親切」で「映画的な」処理があろうか。
あらゆる決定的なシーンに一切の誇張もタメもない。大体において、最初に事件を担当することになる男の刑事が、上司との話し合い中に突然心臓発作で倒れて死んでしまう場面にしても、急に倒れて、救急車で運ばれ(ここで出勤したヘレン・ミレンと交錯する)、次のショットでは部下が彼の死を報告する、という早業である。
個人的には、映画におけるショットの「経済的な処理」というお題目が好きではない。何だその経済性というのは、と思う。
が、無数の経済的なショットで構成されたこの『第一容疑者 第一話』には、経済性(=映画はこれで良いのだ、的な快楽)だけではない、何かが宿っている。それは経済性のおかげで実現した何かなのだが、ドライでシックで「経済的な」眼差しが、物語とどこかで共鳴することで、突然豊かさを帯び始める。
上述した偵察のシーンにしても、古典的には「見る側」である刑事達のサスペンスとして処理されるべき筋書きだが、「見られる側」である妻の視点に素早く転換するその手際が、女性が男性に見られる、というこの世界の構造を静かに暴いているともいえる。
これは一気見してはいけないドラマだ。
一話一話、ゆっくり咀嚼しながら、時間をかけて見るべし。
2020年12月21日月曜日
2020年ベスト映画
1. ナイチンゲール
2. おもかげ
3. ナイヴズアウト
4. ペイン・アンド・グローリー
5. パリの恋人たち
6. レ・ミゼラブル
7. シチリアーノ 裏切りの美学
8. リチャード・ジュエル
9. その手に触れるまで
10.スパイの妻
次点:淪落の人
その他:リトル・ジョー、コロンバス、異端の鳥
主演男優賞:ポール・ウォルター・ハウザー(リチャード・ジュエル)
主演女優賞:アナ・デ・アルマス(ナイブズ・アウト)
助演男優賞:寄川歌太 (滑走路)
助演女優賞:サラ・ベイカー(ディックロングはなぜ死んだのか)
レティシア・カスタ(パリの恋人たち、シュヴァルの理想宮)
特別賞:地獄の黙示録 ファイナルカット版
2020年6月25日木曜日
ナイチンゲール
出演:アイスリング・フランシオシ、バイガリ・ガナンバル、サム・クラフリン
★ 目覚める
映画はまずクレアが夫であるエイデンに起こされる、そのクローズアップで始まる。目を開けると、そこにはエイデンがいる。さらにショットがフルショットに切り替わると、横で赤ん坊が眠っているのがわかる。
本作では、眠ったり、あるいは気絶したクレアが目を覚ますシーンが幾度となく出てくる。自宅でイギリスの兵士らに襲われ、気絶させられたあとに目を覚ますと、赤ん坊と夫の死体が目に入ってくる。彼女がアボリジニのガイドであるビリーとともに森を進んでいく過程では、森の汎神論的なイメージの中で彼女は何度も悪夢を見る。この悪夢は、死んだ夫や兵士が顔のほとんど見えないぐらいの暗い影として現れ、声がこだまして、彼女をじりじりと苦しめるのだが、そんな悪夢にうなされる彼女をビリーが揺り起こすシーンがある。また、終盤では悪夢と現実がない交ぜになったまま、彼女が川へ落下するシーンがあるが、その後に彼女が目覚めると、今度はブラックバード(ビリーを象徴するマンガナ)が彼女のもとへ現れる。悪夢にうなされる、そこから目覚める、という展開を繰り返しながら、彼女の旅は続く。木々が生い茂り、星が輝き、月が怪しく光る空が、彼女の暗い旅を見つめる。
★ 銃の扱い
クレアは復讐にとりつかれたまま、英国兵士を追っていく。そこで偶然、赤ん坊を殺した臆病な男に遭遇する。そしてとうとう追い詰めた先で、彼女はショットガンを放つ。が、銃筒を支えきれず、銃弾は足に当たる。もう一発撃とうとするが、引き金を引いても弾は出ない。その自分の頼りなさ、みじめさを痛感するように、彼女は叫び、ナイフで兵士を刺し、銃で顔を殴り続ける。このときのクレアは復讐を遂行する女ではなく、「復讐すらまともに出来ぬ」みじめさを痛感する一人の人間である。人を殺める重み、家族を殺された喪失感、そして自分への失望がない交ぜになった彼女の叫び、血に染まる顔。ここは本作で最も重要かつエモーショナルなシーンだ。
結局彼女は二度と銃を発砲しないだろう。最大の目的である中尉を見つける場面でも、彼女は発砲を躊躇して逆に撃たれてしまう。彼女が唯一撃った弾は、虚しく下に逸れたその一発だけである。さて、もう一人、銃を扱えない人間が出てくる。それが、英国兵士に仕える少年エディだ。
彼は威勢のよさを買われて、中尉から銃の使い方を習うが、ビリーを撃つよう命じられた場面で、彼もまた銃筒を支えて切れず、上へと弾を逸らしてしまい、ビリーは一命をとりとめる。彼もまた、自分のふがいなさに思わず泣きじゃくるだろう。
その顛末も含めて、ちょっと異例の存在といえるこの少年エディは、その臆病さにおいて、いやむしろ、未だ人間性を失っていない人間として、クレアと秘かに通じているのだ。それに対して、見事に銃弾を命中させる白人達との対比は明らかである。
★森と街
本作は、村から森に入り、そして街に出て、一度森に戻って、また街へ行く、という順番で、主人公二人の旅路と英国兵士団の道程を並行して描く構成になっている。
上述したように森は、悪夢と現実がない交ぜになり、死者の声がこだまし、木々が人々を俯瞰し、月が怪しく輝き、精霊が鳥となして現れる、汎神論的なイメージとともに描かれる。この森においては、アボリジニが圧倒的優位に立っている。ビリーは足痕から英国兵士たちの行く先を正確に推測し、また先に待つ危険を素早く察知して身を隠す。ビリーが姿を消すと、途端に不安になって周囲を探し回るクレアの描写はそれと対をなしている。
ところが、終盤、ローンスセストンの街に到着すると、今度はクレアがその大胆さを存分に発揮する。兵士達の元へ堂々と歩んでいき、中尉の悪行を大佐の前で告発するのだ。その姿を、ビリーは身を隠しながら窓越しに、恐る恐る見つめる。ここでは完全に、クレアの方が優位に立ち、ビリーをガイドするのである。
環境によって、人物たちの優位性が変化していく、相互依存的、相互扶助的な関係性も本作の魅力のひとつだろう。
(ところで、上記のクレアが兵士達を前に中尉を告発するシーンの直後に、玄関先で倒れるのだが、その後ろ姿を捉えたショットが素晴らしい。)
★横に並んで歩く
映画の多くの場面が、ビリーとクレアの森を進んでいく旅路を描いているが、二人が横に並ぶことは少ない。例えば森の入り口の場面では、クレアはビリーを警戒して、銃を構えながらビリーの後ろから馬に乗って進むし、ビリーもまた、衝動的に突き進むクレアを追わずに、別の道を迂回する。また、そもそも「手前-奥」の縦構図で同一画面に収まることも、驚くほど少なく(ゼロではない)、二人を映すショットがカットを挟んで独立していることが多いのだ。これは森のシーンだけではなく、クレアがレイプされるシーンだとか、英国兵士達の道程を描く場面でも、(もちろん徹底的ではないにせよ)複数の人物を画面に収めることよりは、それぞれの人物をカットを割って画面に納めていくスタイルが優先されているように思われる。それはある種の分断なのかもしれないし、もっと身体的な監督のリズムなのかもしれない。だが、どういった意味があるにせよ、以下の理由でこのことは自覚的な演出プランであると確信する。
それが、二人で並んで歩くショットである。ビリーが英国兵士集団に捕らえられることで、クレアとビリーは離れ離れになってしまう。しかし紆余曲折を経て、二人は思いがけぬ再会を果たす。それは、真正面クローズアップの内側からの切り返しでまず描かれるだろう。そしてその次のシーンでは、二人が横に並んで歩くのを真正面からとらえたミドルショットが続くのだ。カットを一回割ったうえで、2ショット続けてこの歩く姿が描かれていることから、演出家としての力点がここに託されているのは間違いなく、そもそもこの二人が横に並ぶショットが初めて出てくることは観客も(意識的/無意識的に)気付き、得も言われぬ感動を覚えるだろう。
二人が横に並ぶのを真正面からとらえるショット、というのは、例えばアルモドバルが多用するそれだが、適切なタイミングで、適切なフレーミングの下に出現すると、素朴で普遍的な美しさをもたらす。
★太陽
ラストは日の出で終わる。ちょうど早朝にクレアが目を覚ますショットで始まることを考えれば、ある種の円環構造になっていると言えるだろう。日の出とともに始まり、悪夢の夜を通り抜け、もう一度朝を迎える、という構造である。彼女が最後に太陽を見つめながら歌う歌は、来たる夏に、愛する人と生活していく喜びを歌ったそれである。この太陽は、彼女の未来、新たな"目覚め"と言えるかもしれない。そしてそれをまた、ビリーも一緒に見ている。彼は銃弾に倒れ、死にかかっている。彼は太陽を見つめて、「太陽、俺の心臓」とつぶやく。彼は視線の先に、何を見ているだろうか。太陽は、多くの暴力、死を目撃した二人の瞳を癒すように、照らしているようにも見える。それは、『硫黄島からの手紙』で二宮和也に照った夕陽のようでもある。
★ハリエット
同じタイミングで、シンシオ・エリヴォ主演の『ハリエット』を見た。
『ナイチンゲール』が、英国兵士に支配され、家族を奪われたアイルランドの女性とアボリジニの男性の旅路を描いた作品であるとすれば、『ハリエット』は白人の奴隷として自由を奪われ、家族を失った黒人女性のハリエットの旅路を描いた作品である。驚くべきことに、『ハリエット』もまた、ミンティ=ハリエットが、"目覚める"シーンで始まる。また、ミンティ=ハリエットは頭部外傷の後遺症で、突然睡眠発作に襲われ、そのまどろみのなかで、神の声を聴きそれに導かれて、森を駆け抜けていくのである。
また、ハリエットが善人の助けで草原に出て、街を目指すシーンでは、太陽が彼女の瞳を照らし、彼女もその太陽を見つめる(よりエンターテインメント性の高い『ハリエット』では、この太陽は端的に"希望"と言って差し支えないだろう)。
他にも支配者側の卑屈な所有欲を暴き立てる点や、二人とも特別な歌声を持っていること、街と森を行き来する構造、川を渡る場面が重要な転換点になっている点など、『ナイチンゲール』と『ハリエット』の共通項は驚くほど多い。
ただ、『ハリエット』が雄大なロングショットと見事な伴奏曲で、(ややサスペンスを欠きつつも)一流の娯楽作として魅せるのに対し、『ナイチンゲール』はスタンダード・サイズで、あえて視野を狭く取りつつ、視点とイメージによって空間を拡張していきながら、陰惨さとユーモアを多義的に露呈していく凄みがある。
ここ数年で随一の傑作と言っていいのではないか。
2020年4月9日木曜日
王国(あるいはその家について)
パソコンの小さいスクリーンで見たので、そこはご了承願う。
「あるいは~」というサブタイトルが如何にもなのだが、まぁそれは良いとして。
実演ではなくリハーサルによって表象する、という実験的な映画である。
筋立てとしては、休職して地元に帰った女性(アキ)が、かつての幼馴染夫婦+一人娘と交流を持つが、様々な価値観の対立などがあり、いったん疎遠になる。が、台風の日に娘を預かったアキが、橋でその子供を突き落としてしまう、というものになっている。「なぜアキは、幼馴染の娘を殺したのか」という動機がミステリーとなって、そこに接近するようにして人物達のやり取りが(リハーサルによって)描かれる。
手法を別にすれば、それほど突飛なテーマではない。
非常に粗っぽくまとめるなら、幼馴染夫婦の「家」は、温度や湿度までコントロールされた、「家族だけの場所」であり、アキはそこに入り込めないし、入りたくもない。しかしアキとしては、幼少時に椅子とシーツでお城を作った親友との、二人だけの二人にしかわからない関係性(=王国)が失われたこと、あるいはそこから親友が立ち去り、「家」の方に行ってしまった事、あるいはそこに囚われていることに、「傷ついて」いる。それが台風の日の一時的な晴れ間(台風の目に入っている状態)に、彼女の内面を激しく揺さぶり、娘を突き落とすに至るわけだ。王国を取り戻すために異物を排除すること。
このことが、アキが読み上げる、幼馴染に宛てた手紙に語られる。
少し脱線するが、これはいわば「意味の場」(マルクス・ガブリエル)をめぐる物語とも捉えられるだろう。いみじくもガブリエル自身が、「意味の場」というものを(単なる「対象領域」とは違って)杓子定規に割り当てられた部屋の空間そのものというよりは、間取りや配置によってその都度変わる部屋の表情(←不正確)というような意味合いで説明していることとも重なるが、簡単にいえば、ここでは幼馴染の夫が設定している意味の場と、二人にしかわからない意味の場が、対立、衝突し合っているのだと言える。思弁的実在論の立場にたてば、それぞれの意味の場が間違いなく実在していることになる。
まぁそれは良いとして。
で、上記の物語を、リハーサルの反復によって描こうというのが、野心的である。
まだ見たことがないのだが、今村昌平の『人間蒸発』は途中で実演とメイキングが混合するような作りになっているというから、それと近いのかもしれない。
あるいは、何か表象しがたいものを表象していく過程を役者のリハーサルによって描こうというモチーフは、篠崎誠の『SHARING』を思い出させる。日本のインディ映画では、意外とこういうのが多いかも?例えば濱口竜介の作品世界とも決して遠くないと思うのだがどうか。(もちろん、アトム・エゴヤンも)
見ている側としては、セットや服装などが変わりつつ何度も反復されるリハーサルを見ながら、徐々に肝心のシーンを想像していくことになるだろう。少なくとも私はそうだった。あるいはリハーサルという「嘘」にあっても、セリフを読み上げる役者達からは、それ以上の感情の変化、言葉の受肉が感じられるだろう。少なくとも私はそうだった。
こうした反復による表象プロセスそのものが、一種の「王国」の形成になっていて、見る者はその合言葉を共有しているのだ、と大寺眞輔氏が指摘しているが、まさにそういうことでもあるだろう。
だが、こうした表象困難なものの表象プロセスを共有することで、私たちは果たして「シネマ」に接近しているのだろうか。いや、そんな原理主義的なことを言いたいわけではないのだが、例えば上記したアキが幼馴染への手紙を読み上げるシーンは、ワンショットで最初から最後まで語られ、こちらは否応もなくアキの心理状況、そして娘を突き落とすという行為についての想像と分析を膨らまさせられるのだが、これは「文学」ではないの?と。
あるいはそもそも、あえて断片的なリハーサルの光景を時系列も交錯させながら構築していく手法をとっていながら、この(明らかに筋立て上、最も重要な)手紙のシーンは狙ったように最初から最後まで通して読み上げられることによって、最終的に、直接的な言語的メッセージが勝ってしまってはいないか。だとすると、それはもう、この手紙だけで良いわけで、時系列を交錯させること、断片性を強調すること、あえてリハーサルを描くこと、城南高校のあれこれについての会話をあえて反復することの効果も、正直薄くなってしまっていると思う。
150分、なんだかんだで見続けてしまったので、その力量は素晴らしいものがあるが、うーん、手紙一枚で終わりじゃん、と。次作に期待。
(ところで、こうした実験的な、あえて「作り物」であることを強調することで、表象を脱構築していく手法によって、新鮮な日本映画が誕生したことは良いことだが、これがいざ劇映画としてリアリゼーションされると、とたんに三島の『Red』みたいなことになってしまうから、ちょっと複雑な気分ではある。)