2012年4月26日木曜日

「人それぞれ」リベラル

さて、今回は映画評論家の大寺眞輔氏のTweetへの共感を表すとともに、改めて現在の社会の環境とかを見つめるために、ちょっと覚書程度のものを書いてみようかと思う。
大寺氏自身の問題意識は、日本の映画環境のあり方にあって、Tweet自体はそこへ向けてのものではあるが、しかし(これはあらゆる大寺氏のTweetに言えるが)その射程は映画環境の枠にとどまらず、より一般的な社会的問題意識へと昇華され得るものだ。


と、調子に乗った書き方はこれぐらいにして、さっそく大寺氏のTweetを
→http://blog.ecri.biz/?p=1697


・文化的選良、あるいは自己規範の形成について 


やや乱暴な要約かもしれないが、要するに大寺氏の問題意識は、かつて映画ファン(シネフィル)達が形成していた「シネフィル共同体」内での映画の消費だけでは、もはや映画は生き残れない。なぜなら、以前はSNSが普及しておらず、シネフィルの意見はシネフィルの意見としての権威を持っていたが、SNSが普及してしまった今、シネフィルの意見とふつーの人の意見が同じ重み(軽さと言うべきか)を持って受容されるからである。
そしてもちろんふつーの人の意見へのシネフィル的応答は、「いや、映画の趣味なんて人それぞれでしょ?」で片づけられる。
つまりかつてシネフィル共同体が有していた権威=映画をめっちゃ見てるすごいやつらという認定が無くなった今、その失われた権威にしがみついて発言している限り、誰も見向きもせず、あるいは内輪のノリとして消費され、映画は資本主義の流れとともに消失せざるを得ない。


この問題意識をより一般的なワードと記号によって再構築するならば、以下のようになるだろう。


マスメディア全盛時代において人々に圧倒的な影響を与えていた「文化的選良」の権威はいまや失われ、人々はSNSを通じて自由に自分の価値観を発信できるようになった。
それは一見、多様な価値観の衝突によるより豊かな文化的空間を創造するかにも思えるが、現実には多様な価値観は衝突することなく、「価値観は人それぞれ」という大義のもとにあらゆる言説は同じ軽さでネット上に埋没している。


これをFacebook的な言説空間と呼びたい。その空間は以下の性質によって特徴づけられる。


人々は自由に意見を発し、自己の価値観の表明を嬉々として行っているものの、それは「イイネ!」というほとんど相槌と変わらないレベルの評価に安住する類のものであり、個々人の文化的スキル、価値観の変容が起こる契機は乏しい。


「人それぞれ」という一見リベラルで好ましいようにも見えるこのワードが、実は人々の価値観の衝突と議論を抑制し、結果として各々の自律と発展を妨げている。これを私は、「自己規範の喪失」と呼びたい。
自己規範とは何か。私の解釈では、絶え間ない文化的、学問的な自律と発展をめがけ、多様な言説を自身の中で再構築することで形成される自己のライフスタイルであり思考の枠組みであり、価値の階層である。
つまり、「自己規範が失われる」とは、異なる価値観を擁護することや批判することを恐れ、「イイネ!」という「一応の承認=何も言ってないに等しい相槌」をすることで安息を得ることが常習化することである。
自己規範の形成は他者の擁護と批判を伴う。なぜなら他者への言及は常に自己への反省を促すからである。


・「人それぞれ」リベラルへの抵抗としての「愛の表明」、または「『暇倫』的試み」

 さて、以上見てきた要素を再構成すると、以下のようになる。
SNSによって人々が自分の意見を発信できるオープンな場が出来た事で、それまでの権威主義的/選良主義的なものはその力を失い、あらゆる意見が等価なものとしてネット上に溢れかえり、それらは「イイネ!」という無差別な承認に安住することを余儀なくされている。その結果、社会で権威的に、しかしある種の尊敬を受けながら維持されていた「価値階層」が失われ、人々に自己規範の刷新を促すような社会的環境が失われつつある。
大寺氏も、この「選良集団」の権威によってそういった集団に伴う「内輪感」が打破されたことを好意的に見つつも、やはり「人それぞれ」という名のもとにあらゆる言説(例えば映画批評)が等価に消費される現状には問題を感じている。だからといって、選良主義的な自意識過剰な振る舞いをしたところで、誰からも見向きもされないだろう。
これに対する新たなあるべき「選良の姿勢」として、大寺氏は具体的な表現ではないものの、ある種の方向性を打ち出している。

自分が愛するもの、歴史、教養、これら全てを捨てるべきと言う意味ではありません。しかし、それらを他人にも愛してもらうためのルールや作法全てが変化したと思うのです。私たちに必要なのは創意工夫です。そして同時に、これらを自分の身元保証として使うことは、たぶんもうできない。
まあ、自分でもひねくれ者だなあと思わないでもないです(笑)。でも同時に、自分があんまり好きじゃない映画を本気で擁護してるアメリカとかの論評読むと、なるほどそういう愛もあるかとなびいて肩入れし始める自分がいるのも本当なんですよね~
蓮實さん山田さんが編集した「季刊リュミエール」でも、ウェイン・ワンの『スラムダンス』を表紙にした13号に一番インパクト受けたし。それは、彼がさほど重要な映画作家とまでは成長しなかった現在から振り返ってもそう。あれはとても勇気ある決断だったと思う。そしてそこに愛を感じる。



つまり、SNS時代における「各々の多様な自己規範の衝突による新たな価値の醸成」の可能性は、その自己規範の「ぶつけ方」にあるのだ、という事ではないだろうか。   自分の教養をそのまま自堕落な自意識のもとで垂れ流すのではなく、あるいは自己規範を絶対化して他人に押し付けるような傲慢なやり方とは別のやり方で愛を表明すること。そういった方策に活路を見出している。
 で、ここで話は飛ぶのだが、國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』という試みにはそのような「新たな価値の醸成」の兆しがうかがえる。というのも、『暇と退屈の倫理学』を(かなり乱暴に)要約すると、「暇つぶしに映画見るのはアリだと思うよ。だけどどうせ映画見るならガチで見てみなよ。そっちの方がQOL高いよ。」というものであって、これは「暇と退屈」という人類共通の身近な悩みを切り口に、文化的教養へのコミットメントを促すものであると解釈できるからだ。しかも、國分氏は近いうちに、「欲望と快楽」に関する著作を出すと公言しており、人それぞれに楽しいことしてればいいのか、それともやっぱり映画や音楽やその他もろもろの文化にも、選良が存在しており、そういった選良の導きを受けることでさらに楽しい人生が可能になるのか、という問題提起へと至ると予想しているのだが、だとすると本格的な文化的教養への導きの書になるのではないだろうか。






自己規範と社会規範


以下の、マッキンゼーの田中祐輔氏のTweetを見てほしい。


 てか就職できなくてウジウジ言ってるくらいなら、マジで中国でもブラジルでも行けばいい。成長中の国なら何かしら仕事くらい見つけられるはずだしその経験は絶対に将来的に意味がある。んなこともできないでネットでウジウジ言ってるブタはもう野垂れ死んでくれ。
親も悪いよなー。仕事しないでダラダラしてる子供なんて追い出せばいいのに。ウチのオヤジは、塾でも習い事でも僕から言い出して土下座してお願いするまでは何もお金払ってくれなかったし、就活で僕が外資系の投資銀行を全部落ちて弱ってる時も「お前ごときが受かるか」と高笑いするオヤジだった。
大学の必修科目として半年間「生命力強化プログラム」を導入して欲しい。選択科目は、①ロシアのマグロ漁船、②ブラジルの鉱山、③中国の工場みたいな。生命力強くなるし、成長中の国で一定の期間過ごすのは意味がある。

Tweetの順番は投稿の順番から一部変更したが、氏の論理構造はこの順番で見るとわかりやすいだろう。要するに、今の若者はだらしない⇒俺は生命力あった。みんな生命力持たなきゃダメだろ⇒若者をマグロ漁船へ!という事である。

あるいは茂木健一郎氏のこのTweetを参照してほしい。
教育課程におけるカリキュラムは、それが子どもたちに与える感化と便益を通して精査されるべき。その意味では、現行のカリキュラムは決して最適なものとは限らないと思う。中学校でダンスが必修化されるそうだが、将棋も必修にした方が集中力や考える力がつくのではないかと昨日思った。
日本人は英語を話す力が相変わらずないが、英語による演劇を必修にすれば、ずいぶんと風景が変わる。考えてみると、私たちが「学校」にあてはめているカリキュラムは、知識偏重だった頃の思い込みに基づく、化石のような側面がないとも言えない。カリキュラムのビッグ・バンが必要だろう。
コンピュータのプログラム能力は現代人に必須だが、それが十分に教育されているという話は聞かない。日本史や世界史の細かい人名や年号を聞く入試問題も、それに向けられた授業ももはや時代錯誤。日本の停滞は、化石化したカリキュラムがもたらしていると言ってもよい。
重箱の隅をつつくような歴史教育、試験はナンセンスだが、歴史を知ること自体には価値がある。世界のさまざまな場所で、さまざまな年代にどのようなカリキュラムが存在したか。それを知ることで現代が相対化される。バッハの時代には、音楽はりっぱな主要教科だった。
見ればわかるように、茂木健一郎氏による教育への提言だが、その内容は英語演劇の必修に将棋の必修にコンピュータの必修に、と盛りだくさんである(笑)これは推測の段階を出ないが、おそらく茂木氏の脳内には、「こういう奴が社会に必要だ」という具体的な学生像があり、その実現のために公教育の変更を提案するというもので、はっきり言えば「独断のまどろみ」に過ぎない。
しかしその論理構造は上の田中祐輔氏と類似しており、自己規範を社会規範にすり替えているのである。
自己規範はあくまで自分自身が生きていくうえで参照する軸やマニュアルであり、それをそのまま他人に適用する事は妥当ではない。巷で言われるワタミ的体育会系マッチョイズムも同じ論理構造を持っており、別にある人が「サービス残業をもらわなくても、俺はお客様の笑顔のために働くんだ!」と思う事は勝手だが、それを組織内の規範とする事は全くもって危険極まりないことであり、現に自殺者が出ている。
社会規範とは、ある人が望む人生を実現するためのものではなく、社会で生きる全ての人達が「自分が価値をおく理由のある生を生きる」事を可能にするような公共原理であるから、ここに自身の経験に基づく独断的な自己規範を適用することは不合理なのである。

2012年2月18日土曜日

『メランコリア』レビュー

監督:ラース・フォン・トリアー
 
もの凄い映画。実はトリアーの映画は初見なので、他の作品とは比べられないのだが、画面が物語を先導していくという得難い体験に思わず酔いしれる。
どういう事か。
例えば結婚式の途中でキルスティン・ダンスト演じる(噂にたがわぬ名演!)ジャスティンがいなくなってしまう。そして、画面は脱ぎ捨てられたドレスを映しだし、次に風呂に浸かるジャスティンの姿を映し出す。それまで観客が把握していた、想像していた「ジャスティン像」の半歩先を行くジャスティンの姿がそこにある。
 
あるいは第2部において、シャルロット・ゲンズブール演じるクレアが二階の窓から外を見降ろすシーンがあるが、ここでカメラはクレアの視線として、息子を引き連れメランコリアを見物する無邪気な夫の姿と、その遠く先で立ち尽くすジャスティンの姿を映し出す。それまで提示されなかった形式で持って、人物達を描きだし、さらにそれらを上から見つめるクレアの視線を意識させること。ここでも物語が画面によって生成しているのがわかる。
 
このように、常に常に、我々の想像の半歩先のイメージを映し出す神業によって、一見全く支離滅裂にすら思える「あらすじ」が、異常なまでにエキサイティングなサスペンス(!)として我々の心を掴んで離さない。
 
と、こんなことを書くのもばかばかしいくらい、ラストには衝撃を受けました。多分、ラストシーンはシャルロット・ゲンズブールよりも過呼吸に陥ってたと思う(笑)本当に、これほど鳥肌が立ったのは初めて。素晴らしい!ありがとう、トリアー!

2012年2月11日土曜日

これからの医療と科学と社会と

(1)問題提起
原発事故により放射性物質が福島を中心に降り、またネット上に放射能の健康被害などについて
質・量ともに様々な情報が流れ、多くの人々、特に福島近郊に住む母親達の間で、混乱と不安の波が広がった。
 
今回は放射能への不安であったが、今後も社会が何らかの「未知のリスク」に直面する可能性は大いにあり、科学者や医師の担うべき役割は大きい。
そこで一人の医学生として、今回の「放射能不安」を分析し、科学者や医師がどのようにアプローチしていけばよいのかを考える。


(2)リサーチ
①低線量被曝による健康被害
このリサーチはあくまで、放射能への不安に対する医師・科学者の役割について考えるものであるため、放射線の健康被害について長々と書くことはしないが、事故から現在に至る、福島を中心として計測されてきた放射線量について、科学的に言えることを手短に書いておきたい。これまでの科学的・疫学的データからいって、放射線による健康への影響が出るのは、100mSvからである。しかしだからといって、低線量被曝(100mSv以下)による健康への影響が全くないとは、現在の科学では断定できない。*1
というのも、放射線による健康リスクを検出するためには、膨大な疫学調査を行わなければならないからであり、その困難性をICRPも表明している。*2
そして原発事故以降、今回の事故で放出された放射性物質による健康被害に関しては、科学者の間でも意見が割れている。東京大学の中川恵一氏や、オクスフォード大学のWade Allison氏は、全く影響がないと主張する一方、東京大学の児玉龍彦氏は自身の著書などで、内部被ばくによる健康被害に警報をならしている。*3

以上を要約すれば、現在の科学的・疫学的データからいって、福島原発事故による健康への影響に関して断定できる事は少なく、科学者の間でもその影響に関する評価で差があるという事である。この事を前提として、以下に論を進めていきたい。

②緩慢なパニック
言うまでもなく、原発事故以降、多くの人々、とりわけ事故があった原発付近に暮らす母親などは非常に大きな不安を抱き、その不安は今も解消されていない。
ジャーナリストの上杉隆氏は、未だに継続する大きな不安を、「緩慢なパニック」と表現している。これは、通常言うところの「パニック」のように、暴動がおこったりしているわけではないが、しかし実に長期間にわたって不安が継続している状態を指摘したものだと考えられる。
この「緩慢なパニック」の原因について考えてみたい。

●政府への不信
今回の原発事故以降、日本政府は情報公開の在り方について非常に多くの批判を受けてきた。今さら言うまでも無く、原発事故直後の日本政府の透明性には問題があったと言えるし、また様々なジャーナリストや評論家などが、東電・保安院・経産省との癒着を指摘し、その信憑性に疑問を呈したことも、「政府は情報を隠しているのではないか」という不信感を助長した。慶應大学医学部の八代嘉美准教授が指摘するように、いくら政府が「この線量では心配ない」などの公式見解を出したところで、その政府自体が信用を失っていれば、その主体が設定した基準値などについて疑問の声があがるのも、当然と言えるかもしれない。*4


●大量の情報 過剰な相対化
政府が信用できない、となれば、人々はもはや絶対的に信頼できる基準を持たず、生身のまま科学に立ち向かわなければならない。つまり、現在の線量データを検索し、その線量による健康への影響を、科学的データに基づいて判断しなければならない。
それを実行するために例えばインターネットで検索をしたとしよう。そこには様々な言説
が飛び交っている。危険であると言う科学者もいれば、安全であると言う科学者もいる。


あるいは「日本政府は福島県民を避難させるべき」という海外メディアの警報を紹介するジャーナリストもいる。一般人がこれらの情報の中から、正しい情報を取捨選択する事が出来るとはとても思えない。
実際、テレビなどで福島の住民達が「どの情報が正しいのかわからない」と訴える光景をしばしば目にする。


一般的に、情報リテラシーとの関連で、「一つのイシューに関して、複数の情報を相対化して、比較 検討する事が望ましい」と言われている。こうした姿勢によって「行きすぎた相対化」に陥り、大きな 不安を持った人は多いのでは無いかと思う。そしてこの「行きすぎた相対化」は、情報化した現代 社会ならではの問題であり、ここに注目する事で、危機における医師や科学者の役割を考えてい きたい。


③医師や科学者の役割
危機の際の医師や科学者の役割は、人々に安全か危険かを教えることではなく、人々が安全か危険かを判断する材料を提供することにある。というのも、そもそも「安全」とか「危険」という概念はきわめて主観的なものであり、科学の領域ではないからである。
つまり、安全か危険かを判断するのはあくまで一人ひとりの当事者であり、科学者や医師はその
判断材料をできるだけ中立的に提供するべきである。そして提供にとどまらず、例えばインターネット上にあがっている大量の情報の緩衝剤としての役割も、今の時代には期待される。だがそれだけでいいのだろうか。客観的なデータを整理して提供する事だけが、彼らの役割なのだろうか。
そうではないという事をいうために、イギリスの哲学者デヴィッド・ヒュームの言葉を借りたい。
「理性は感情の奴隷であり、そうあるべきである」
これは、理性は感情に支配されており、行為の動機や理由は理性ではなく感情に求められるべきであるという事である。
この事を今回の事例にあてはめて考えてみたい。


②で述べたように、一般的には複数の情報にあたり、比較検討することで合理的な判断をしていく事が望ましいとされているが、非常に大きな不安にかられた状態で、そのような合理的な選択と判断が期待できるだろうか。
非常に激しい不安と混乱に支配された理性によって複数の(多くの人にとっては)馴染みのない情報を理解する事は、非常に困難であろう。
つまり、ここからは科学者の中でも特に医師の役割になってくると思われるが、医師は人々が理性を働かせられるような環境をつくっていく努力をしていくべきなのである。
やや抽象的な表現かもしれない。だが私は、「具体的にこうすべき」といった言葉は持ち合わせていない。というのも、それらは一つひとつの個別のやり取りを通して形成されていくものだからである。私が言いたいのは、そうしたコミュニケーションが目がけるべきもの、その先に実現されるべきものが何かという事であり、それこそが上記したような、当事者が各々の理性を働かせて、自由意志に基づいて判断を下し、行動をする事であり、そしてその選択を医師・科学者が適切にサポートしながら、最大限尊重することなのである。


(3)結論
以上が、私の考える、危機の際の、リスク・コミュニケ―ターとしての医師や科学者の役割である。結論だけをとれば、非常にありきたりなものではあるが、しかしその背景にある情報化した現代社会ならではの問題点を踏まえることで、より喫緊の課題として受け止められるのではないだろうか。
さて、これらをふまえた上で、これからの科学と社会の関係性についても述べていきたい。


①新しい科学コミュニケーション
今回のような危機以外においても、「日本人はリスクへの意識が低く、ゼロリスク幻想を抱いている」、とはよく言われる事であるが、それは一般人の意識が低いというだけでなく、企業や行政、専門家達もまた、一般人に科学の限界やそのリスクを普及していく事にあまり熱心でなかったために、アメリカ、イギリスで行われているような対話型のリスク・コミュニケーションが行われてこなかったという経緯がある。
日本でもこれまでのいささか啓蒙的な一方向の科学コミュニケーションから、社会と専門家のインタラクティヴなコミュニケーションへの転換が必要であろう。
そのような動きは科学界で広がりを見せているものの、私が所属する医学部の教育においては、社会とのコミュニケーションへのアプローチに乏しい印象を受ける。

また(これは非常に主観的な事だが)そもそも医学教育が全体として、社会的な視野で医師の役割を意識させるような内容に乏しいという実感がある。もちろん、実際に臨床の現場に立てば嫌でもそうしたものを意識する事になるのではあろうが、しかしながらそうしたものは、学生のうちから思索を深めお互いに議論を醸成していくものであるべきであり、その意味で、今後の医学教育はより社会医学への重点を置くべきであるように思う。

さらに、医療の未来を考えてみると、今後は遺伝子治療、脳科学、医療ロボットなどの発達が期待されるが、それは同時にそれだけ人々が未知のリスクと隣り合わせになっていく事を意味する。そしてそのような社会においては、常に専門家と人々がコミュニケーションを重ね、信頼関係を築かなければならない。そうした将来について、医学生に限らず多くの理系学生が思索を深め、議論し合う機会が必要であると感じる。
 
一方で、例えばTwitterにおいては一般人と専門家の対話がすでに実現しており、今回の震災時においても、何人かの科学者が精力的にTwitter内での情報提供や対話を行った事は、多くの人々にとって有効なものであった。このようなSNS上でのやり取りに新しいコミュニケーションへのヒントが隠されているのではないだろうか。


②家庭医の普及
それに加えて、私は家庭医の普及が重要だと考える。
①の最後でTwitterでのリスク・コミュニケーションを肯定的に述べたが、一方でTwitterには様々な情報が錯綜しており、またあくまで文字だけのやり取りであるから、フェイスtoフェイスでのやり取りに比べれば当然そのコミュニケーションの質、信頼関係の醸成のしやすさは劣るのではないかと考えられる。(2)でも指摘したように、Twitterへの過度の依存がかえって混乱を招くと言う事も大いに考えられる。
したがって、新たなリスク・コミュニケーションをTwitterにだけ依存するのは間違いである。そこで私は、家庭医という存在に注目したい。

家庭医とは、地域医療において、患者の年齢や性別、疾患を問わずに診療できる訪問診療の担い手であり、他の医師以上に患者、そして患者の家族と密接な関係の中で診療をする存在である。平時から非常に密なコミュニケーションをとる事で、人々のリスクへの意識の上昇が期待できるし、また信頼関係を築いておくことで、危機の際にも効果的なリスク・コミュニケーションが期待できる。日本ではほとんど馴染みのない存在ではあるが、欧米諸国ではプライマリ・ケアの担い手として極めて一般的な存在であり、日本においても欧米諸国並みの家庭医の普及が望まれる。
 

【注釈】
*1・・・内閣官房 低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ報告書参照
*2・・・International Commission on Radiological Protection, “Low-dose Extrapolation of Radiation-related Cancer Risk. ICRP Publication99” Ann.ICRP vol.35,2005,pp.25-37.参照
*3・・・児玉龍彦 『内部被曝の真実』(幻冬舎新書2011)参照
*4・・・八代嘉美 「私たちはどのような未来を選ぶのか」 (『思想地図β2』合同会社コンテクチュアズ2011年収録)参照
*5・・・平川秀幸 「3・11以降の科学コミュニケーションの課題」(『もうダマされないための「科学」講義』光文社新書2011収録)参照

【その他参考文献】
・山口浩 「ゼロリスク幻想」とソーシャルリスクコミュニケーションの可能性
・非特定営利団体HSEリスク・シーキューブHP

2012年1月12日木曜日

ディベート教育とか、ロジカルシンキングとかに対する雑感(佐々木敦さんのtweetなどを参考に)

近年、誰が発端かは知らないが、猪瀬直樹副知事なんかも言っているような「日本の教育は論理的思考を重視していないので、人々が論理的に考えることができない。だからすぐ0か1かの議論に走ってしまう。これは正解が一つの問題しか今まで解いてこなかったからだ。サンデル先生の講義を見よ!あれこそ論理的思考の養成に最適じゃないか。日本でもああいう教育を取り入れるべきだ!」という言説が結構流行しているように思う。他には、それぞれ微妙に言い方は異なるが、東浩紀さん(「国語ではもっと論理的な文章を読ませろ」、「正解が一つでない問題の一節を説得的に書く練習をさせよ」)とか、田原総一郎さんとかも同じようなことを言っている。
(例えばhttp://debatekk.com/default.files/Page441.htmこういったもの)


別にこの言説自体を否定するつもりもないし、そんな事が出来るほど僕は教育について知らない。
しかし、やや疑問に思うところがいくつかあるので、以下に述べてみたい。

まず、人々が論理的思考ができないため、すぐ0か1かの議論に走ってしまう、というのは別に否定も肯定もしないが、まぁ個人的な経験でいうと確かにそうだな、くらいには思う。
しかしだからといって、それを「正解が一つの問題ばかり解いてきたからだ」と言うのは全く意味がわからない。以下に理由を述べる。

●まず、ディベートをするにしても、正解が一つでない議論をするにも、基本的には「正解がひとつのつもりで」思考するものではないだろうか。

●よって、正解が一つでない問題を考えるうえで必要な能力の大半は、正解が一つである問題を解くときに求められる能力と同じである。

●また、これは経験則だが、そもそも「正解が一つの問題」すら充分に解けない学生が多いと感じる。とすれば、正解が一つの問題が解けない学生が正解が一つでない(たくさんある)問題に熱意を持って取り組めるはずがないので、そんな教育を導入するのは無意味ではないか。

ずいぶん前に、批評家の佐々木敦氏がTwitterで、「批評には正解が無いが、批評をする時は『これが正解だ』と確信して書く」というような事を言っていた。
(正確には以下↓


だが、ここで断っておきたいのだが、かといって僕自身は、だから「批評」という行為は、恣意性と相対性と個人性を最初から織り込み済みでやるしかないものなのであって、自分もそうしている、とは必ずしも思っていないのだ。いや、結果としてはそうなるしかないのだけど、そのつもりで書いてはいない。


僕が最悪だと思うテクスト論は、結局のところ真理など何処にも存在しないのだから、自分が書いていること、主張していることも、要するに「こうも言える」というひとつでしかない。後はそれを巧妙に言えているかどうかであって、それが真理であるなどとは、こちらも思っていない、といった態度である。


僕は、ああも言えるしこうも言えるのだが、とりあえずここではこう言っておく、だがその言表の真理性をそもそも私自身が信じてはいないのだ、といった態度が大嫌いだ。たとえ読まれた時には無限の相対性と恣意性に投げ入れられるにしても、書く時には、自分にとってはこれが真理なのだと信じている。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


要するにそういう事だ。正解が一つの問題であろうと、正解が一つでない問題であろうと(作品批評のように)、求められる能力とは、「自分が真理だと信じるだけの『正解』を論理的に導く能力」であり、そこに差異はない。


従って、僕は現在必要なのはディベート教育でも論理的な文章を扱った国語の授業などよりも、単純に現在の教科の授業の質を上げることだと思う。むしろ前者の導入によってますます後者が軽んじられるのではないかと心配する。


また、これは凄く穿った見方ではあるが、ディベート教育を導入していない日本の教育課程で、論理的思考が出来るようになった人達がこういった事を言うのはおかしいと感じる。むしろ自分たちが数学やその他の科目で享受した教育にこそ今後の教育の質向上へのヒントがあるのではないだろうか。
僕自身、高校の時行っていた予備校の数学講師に、論理的な思考の重要性を習ったと思っているので、既存の教科で充分に質向上の可能性はあるはずだし、それをせずに無いものねだりをするのは早とちりではないだろうか。


そして最後に。
佐々木氏のtweetにもある「これが真理だと信じる」態度、これは個人的にとても重要だと思う。
何かを信じてみること。誰かをいっぺん徹底的に信用してみること。というのが、非常に重要だと思うのだ。
今の段階ではその理由はまだうまく説明できない。
ただ、僕はこれまで誰かを信じてはその人の言っていることややっている事を実践し、やがてそれでは解決できない問題にぶち当たり、そしてまた新たに信じる対象を獲得し、、、という事を繰り返してきた。そうした経験は明らかに僕の糧になっている。


【追記】
どうやらディベート教育の目的は他にもあるらしく、「多様な価値観を尊重し合う」というものらしい。
それなら大いに賛成だが、かといって「正解が一つの問題ばかり解いているから多様な価値観を認められない」という
言説があるとすれば、それはちょっと怪しい気がする。

2011年12月21日水曜日

放射能問題についての粗っぽいメモ

仮に、今回の放射線の影響により、癌リスクが数%上がったとして、人はその現実を踏まえたうえで、なおも幸せに生きることができるか。

「風評だ」と言う人間と「実害だ」と言う人間。しかし極端な事を言えば、私たちは毎日のように「ストレス」「事故リスク」「不摂生」といった「実害」に曝されているのではないか。
健康リスクが数%上がることで、その人の「幸福度」は低下するのか。
あるいは風評と実害にどれほどの差があるのか。

おそらく、原発事故の最大の問題は、不当に健康リスクが上昇したことであり、さらに被曝には何のメリットもないことだ。

しかしわからないのが、人々の不安が「健康へのリスクが上昇したのではないか、あるいは将来子供が産めないのではないか」という不安なのか、それとももう少し別の意味での不安やストレスなのか。健康へのリスクは心配していなくても、それでも何かストレスや不安があるとするなら、それは
一体どういうものなのか。それは言語化可能なのか。いろんなものがごちゃ混ぜになってるのではないかと推察する。


仮に、いままで何の害も無いと思われていたものが、実は有害であった事が判明したとして、僕たちはどういう気分になるんだろうか。
科学的に考えれば、知っていても知らなくても健康への被害は当然同じである。じゃあそこにどのような精神的、心理的な差があるのか。


放射能の問題は、多分に認識論的なアプローチが可能なのではないか。
例えば仮に、このような説を立ててみたい。
「人はそれを知っているか否かは別として、様々な有害因子に絶えず曝されている。それでも人は様々な体験を通じて幸せになることができる。我々が幸せなとき、我々はそれらの有害因子を忘れているのではあるまいか」と。
ではこの「忘却」という行為は、果たして『善いこと』なのか、『悪いこと』なのか。あるいは『賢明なこと』なのか『愚かなこと』なのか。このあたり、意見を頂戴したいです。

2011年12月13日火曜日

『一般意志2.0』について―国民的大議論って・・・?Part2

あずまんの『一般意志2.0』を読んだ。
本書はTwitterなどにおいて、「とてもわかりやすく、かつ明晰な思想書」と評判であるが(また某アルファ・ブロガーがおそらく1ページも読まずに書評を書いたことでも有名だが)、確かに噂に違わぬわかりやすさと明晰さと思想的深みがある。
とりわけ第1章~第3章における、ルソーの思想的矛盾から出発して、それが全く矛盾せぬ事を緻密かた大胆に暴き出し、さらにそのプロセスを通じてルソーという人そのものを浮き彫りにする筆捌きには、ぐんぐん引き込まれる。

さて、本書を読むまえに、僕は以下の記事を書いた。
『国民的大議論って・・・?』http://gattacaviator-yasaka.blogspot.com/2011/11/blog-post_23.html

僕がこの記事で言いたかったのは、要するに、最近世間で大議論を巻き起こしている「原発の是非」や「TPPの是非」に関して、いくら一般人が議論したところで、その議論の精密さは専門家のそれに比べてどうしても低くなってしまうため、ほとんど意味を成さない(あるいは成すべきでない)し、こうした国民的議論が何らかの合意に達することはほとんど無く、国民の分裂を引き起こしているだけではないか、という事である。

「原発の是非」については、この数週間で多少意見も変わったが、しかし一般的に言ってこのような「国民的大議論」といったものについての疑念は払拭できない。

『一般意志2.0』でもそれに近い記述が散見される。特にアーレント、ハーバーマスに対する批判において、非常に重要な事を述べている。
あずまんによれば、アーレント=ハーバーマスのコミュニケーション論あるいは熟議民主主義は、我々が一定程度の文化や生活様式といったコンテクストの共有している事を前提としており、これを手掛かりに議論の落とし所を探るべきだ、というものである。
さて、では我々はアーレント=ハーバーマスが言うように、一定程度のコンテクストを共有しているのであろうか。
あずまんの答えはNoである。僕も全くそう思う。

Twitter上でしばしば繰り広げられる、放射能を巡る論争を見てみればいい。彼らがわかり合うことなど永久に不可能に思える。
これは「クラスタ」という流行語が象徴するように、所属するクラスタによって、交わされる言葉は同じ日本語とは思えないほど異なり、思想・信条(あるいはその有無)などがまるで異なり、お互いのコミュニケーションの機会がほとんど失われているからだ。
また、放射能に関して言えば、これは情報の氾濫によるところが大きいだろう。
というのも、放射能リスクに関して、いわゆる「楽観派」(池田信夫氏、アリソン教授など)の言説だけ拾っていれば、放射能を心配しなくなるし、「慎重派」(菅谷松本市長、児玉氏、あるいはチェルノブイリ関連のニュース)の言説を拾っていれば、すぐさま大きな不安に襲われることだろう。
さて、果たして楽観派と慎重派が合意に達することなどあり得るのだろうか。Twitterを観察する限り、ほとんど0%に近いように思える。

つまり、少なくともこの国で、これ以上国民全体が「理性的な議論の末に合意に達すること」など不可能なのだ。

これ以降の内容の分析は他の書評で出回っている通りだ。あずまんはアーレント=ハーバーマス的な理性=意識と欲望=無意識の関係の概念を転倒し、さらにフロイトの思想を経由することで、可視化された国民の欲望=一般意志2.0を、理性によって乗り越えるものではなく、かといって理性を支配するのでもなく、理性=エリート熟議に制約を加える「モノ」として捉えることを主張している。(ポピュリズムでも選良主義でもない、その両者が組み合わさった新しい政治的コミュニケーション)

平たく言えば、国民は無理して国民的大議論に興じる必要はない(そんな事をしても池田信夫にコケにされるのがオチだ(笑))。むしろ基本的には無意識の欲望の表出をし、自分の得意分野=クラスタにおいてのみ、理性的な対話に挑めば良い、という事になる。

このような政治思想のもと、人々の生活そして社会はいかなるものであるべきか。あずまんはローティの「リベラル・ユートピア」を採用する(レディー・ガガの「みんな違うという点でみんな同じ」というのに近いと思う)。社会=公の場においては、あらゆるイデオロギーが相対化され、普遍的原理は排除されなければならない。そしてそういった理性的なイデオロギーではなく、「想像力」、「憐れみ」によって人々が否応なく(無意識的に)結び付けられることにこそ希望を見出している。

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さて、以上が『一般意志2.0』の概要である。
非常に直感的に考えたものだが、本書への疑問を一つ。

・想像力の暴走
「苦しみに直面した人々を見たら、誰もが憐れみを持たずにはいられない」というローティの思想は果たしてどこまで妥当だろうか。
人の想像力は「憐れみ」だけではない。人はある光景から、自分勝手な物語を構築する動物である。
例えば先日話題になった群馬大学の早川教授。彼は福島の農家がオウムと変わらないと批判した。その論旨は、放射能のリスクや基準値の問題に薄々気付きながらも、農産物を作り、消費者を危険に曝しているというものだ。
つまり、早川教授は、福島の人々が農作物を作る光景を見て、「自分の利益に拘泥して、消費者を危険に曝している」という物語をつくっている。
しかしもちろん、同じ光景を前にして以下のような物語を構築する人達もいるだろう。

「地震と津波による被害だけでなく、放射能による汚染によってその尊厳を傷つけられた人々が、それでも何とかもう一度、農家としての誇りを取り戻そうとしている」と。

つまり、この震災を前にしては、「想像力」や「憐れみ」すらも国民を分裂させるものになってしまっているのではないか。このような現実を前に、我々はいかにして連帯できるというのか。