2016年4月30日土曜日

母よ、

監督:ナンニ・モレッティ

虚構と現実が対比される。
それは映画と現実の対比にとどまらず、主人公であるマルゲリータの回想や衝動的空想と現実の対比としても描かれる。

この映画において現実と対比される「虚構たち」はどういった存在として描かれているのだろうか。
たとえば映画内映画、すなわちマルゲリータが撮影している政治映画は、冒頭からスタッフの協調性に欠けており、なかなかうまく進まない。そこにジョン・タトゥーロが入ってくることで、ほとんど撮影現場は崩壊寸前に至る。
つまり虚構の制作は、全くうまくいかない。「アクション!」とともに出現する虚構は、あまりにも早く「ストップ!」してしまう。その都度、マルゲリータは現実に引き戻されてしまう。
虚構の制作が失敗するたびに、苛立たしい現実がゆっくりと彼女の心をかき乱していく。

映画内映画とは別に、彼女の妄想なのか回想なのかわからぬが、いくつかの「虚構」が挿入される。

最初のそれは極めてユニークで、ヴェンダースの映画を上映している映画館に大勢の人が列をつくって待っているというものだ。そこでは彼女に対して苦言を呈する兄が出てくるという面はあるものの、映画全体においてはかなりdreamyで美しい情景として示されているように思われる。だからこのシーンが唐突にカットされて現実場面に戻るとき、これもまた現実に引き戻された、という感覚を覚える。
だがしかし、これ以降の「空想/回想」については、かなり悲観的である。車を壁にぶつけまくるシーンや母親が病院を抜け出してしまうシーンなどがそうである。
また、母親がすでに死んでしまっているという「夢」はマルゲリータの「不安」を反映しているように思われる。記者会見で何人もの記者が同時にしゃべってくるシーンはマルゲリータの「焦燥感」を感じさせるものである。
これらの統一性のなさはそれ自体では問題ではないが、一方でそれほど映画全体を活性化させているわけではなく、やや中途半端に感じられる部分もある。


さて、マルゲリータがその都度連れ戻されてしまう現実、その苛立たしく、重苦しい現実はどのように描かれるのか。
上記の通り、「映画の撮影」がその一端を担う。
ジョン・タトゥーロが現場をひっかきまわしてしまい、現場をコントロールするはずの映画監督は、ここでは完全にコントロールを失ってしまっている。

その他のシーンでも、現実は容赦なく、唐突で無慈悲なやり方で彼女の心をかき乱す。「いつの間にか」家の中が水浸しになっていること、「いつの間にか」母親の容態が急変して気管切開されていること。。

周囲をコントロールする力を失い、なおかつ不条理の速度で進んでいく現実に追いていかれそうになり、自分自身の感情すらコントロールできなくなってしまう。
これは近年ではオリヴィエ・アサイヤスの『夏時間の庭』とも通底するテーマである。『夏時間の庭』においては、死んだ母親の長男であるフレデリックが、自分の周囲のコントロールを失い、つねに後手に回ってしまう存在として描かれている。本作では当然マルゲリータがその存在を引き受けているといえよう。


現実は思ってもみないテンポと速度で、人々を追いていく。しかしながら映画自体はとてもゆっくりとした時間の中で描かれており、その緩やかさに魅了される。
ジョン・タトゥーロのオーバーアクトは、まったく嫌な感じがしない。とっても可笑しい。
素晴らしい映画。

2016年3月19日土曜日

消えた声が、その名を呼ぶ

監督:ファティ・アキン

石鹸工場にアルメニアの難民たちがかくまわれている。主人公タハール・ラヒム(素晴らしい・『ある過去の行方』でも素晴らしい演技)もその一人だ。

タハール・ラヒムとその友人が、ネット越しに見える女性が着替える様子をみて発情し、風俗店に行こうと出かける。するとその道中に、チャップリンの上映会がなされていることを知り、タハール・ラヒムは一人、上映会の方に向かう。チャップリンの映画が、あまりに自身の経験と重なり、彼は上映が終わってもしばらく座ったまま動けなくなってしまう。すると自分がかつて経営していた店の従業員が現れ、しかもその従業員によって娘が生き残ったことを知る。

このような脚本。つまり、エモーションがエモーションを導く、美しい物語の流れ。
悲しみや怒りが、声を失った男の身体によってダイレクトに画面に刻印される。
オスマン→キューバ→アメリカと進むにつれ、最初は大きなシステムのなすがままになっていたタハール・ラヒムの行動も、よりアグレッシブに、また暴力性を帯びてくる、という明確なストーリー・プランも素晴らしい。
脚本と撮影が勝利しており、役者も素晴らしい。傑作だ。

2016年3月14日月曜日

オデッセイ

監督:リドリー・スコット

クライマックスである「アイアンマン作戦」が面白いのは、あれだけやめろやめろと言われていた作戦であるにもかかわらず、ほとんどどさくさにまぎれてマット・デイモンが勝手に始めたあげく、案の定コントロールが難しくて苦戦するからだ。
ずいぶん生真面目に計画を練っていた最後の最後で、こういうお茶らけたクライマックスを用意しつつ、オレンジ色のロープを使った美しい「再会」を直後に描くことが、この映画を「映画らしく」している。

だが一方で、この映画のほとんどのシーンは、全てにおいて「首尾よく」、「要領よく」、「適切に」物事が進行していく。そのご都合主義は決して映画的なそれではない。
登場人物はみな頭が良く、コミュニケーション能力が高く、プレゼンテーション能力が高い。
要するに、グローバル・エリートだ。
宇宙力学課の物理学者が、NASAの首脳陣を前に自分の考案したアイデアを披露するシーンは、さながらTEDxのプレゼンテーションだ。
なんとさわやかで快活なこと。
申し訳ないが、私はそんなものを見に映画館に来ているわけではない。


この映画もまた、『ソーシャル・ネットワーク』であり、『ラッシュ/プライドと友情』であり、『ザ・ウォーク』である。
大量のナレーションが手際よく並べられ、タイミング良くリアクションショットが加わる。「軽快な編集」の寄せ集め。それはさながら映画全体が「プレゼンテーション」になってしまったかのようであり
(いやもちろん映画とはRe-presentationなのだからそうした要素があるのは当然としても)、もはやその高度に科学的で専門的なナレーションの内容が本当に理解できているのかどうかもわからぬまま、「細かいことは良くわかんないけど、とにかくカッコいいからオッケー!」な気分だけが生まれる。こうした映画に対して投げられる賛辞とは大体が「スピード感」だの「軽やかさ」だのといった言葉で飾られたものばかりである。濁りがなく、引っかかるものが何一つない。
あるいは、何か見ている間中、ずっと何かのCMを見せられているような気分にすらなる。

これはやっぱり問題だと思うが、どうかね?

2015年11月8日日曜日

バニーレークは行方不明

監督:オットー・プレミンジャー

素晴らしすぎる!これぞ映画だ。
「あらすじ」の緊急性に対する、現実世界の時間の多様さ。その多様さを生き抜くヒロイン、キャロル・リンレー。
緩やかなスリラー。完璧。

★
新居の入り口へと続く階段。その階段を軽やかに駆け上がっていくキャロル・リンレーの姿がまず印象的だ。これに対して、保育園でキャロル・リンレーがわが子を探そうと階段を昇っていくと、大勢の子供たちがその行く手をふさぐ。
このようにしてキャロル・リンレーがわが子を探そうとすればするほど、様々なキャラクターやイベントがその捜索を邪魔する。この「邪魔」こそが、まさにこの映画のもつ多様性であるだろう。
気味の悪い家主の存在、クレイジーな保育園長、ヒロインをバーに誘って会話に興じる警部、あるいは子供が失踪したニュースがたちまちThe Zombiesのライヴ映像に変えられてしまうこと。そのThe Zombiesの曲がBGMとして映画全体のムードを脱臼させてしまうこと。あるいはそうした「邪魔する能力」を最後の最後でヒロイン自身が披露すること。
物語が決して一直線には進まない状況に対して、カメラもまた流麗な動きでもって戯れる。


★
キャロル・リンレーが病院から抜け出すシーンの、ベッドからすり抜ける身のこなしが何とも素晴らしい。



2015年10月8日木曜日

サムシング・ワイルド

監督:ジョナサン・デミ

最高!
まず、タク・フジモトの美しい撮影。メラニー・グリフィスの顔をフロントガラス越しに捉えたいくつかのショットの抒情。さまざまな車、さまざまな衣装を見る楽しさ。
ほとんどのシーンが車を走らせることで展開する。とりわけ序盤の、ジェフ・ダニエルズがレストランから走って逃げ、メラニー・グリフィスが走らせる車にダイブするシーン。そしてこのときのメラニー・グリフィスの手口を利用してレイ・リオッタを出し抜くシーンの何とくだらないこと。
ラストにジェフ・ダニエルズがレイ・リオッタに”勝利”する瞬間の、真正面からの両者のクローズアップの切り返しが、まったくジョナサン・デミらしい素晴らしさ。


2015年9月12日土曜日

レッズ

監督:ウォーレン・ビーティ

素晴らしい。歴史的事象についてその起承転結を決して親切には提示してくれないので、ともするとセリフや場面に置いてかれそうになる部分もあるが、映画にとってそんなことはほとんどどうでも良い。

このダイアン・キートンとウォーレン・ビーティの関係性。このような史実を描いた映画で、これほど充実した男女の描写は稀ではないか。それは常に、各場面において、二人の距離や視線を繊細に演出しているからに他ならない。

・口論の末に立ち去ろうとするも、結局扉の前で立ちつくしてしまう二人を描いたショットは何とも愛らしい。
・一方でキートンも立ち去るときには立ち去るサバサバぶりで、このメリハリのあるキャラクタリゼーションが効いている。
・党内が分裂し、ビーティが扇動者となって党員を地下に集めるシーンでの、キートンに向けられた俯瞰ショットが素晴らしい。
・あるいは、はるばるフィンランドまで行った挙句にビーティに出会うことができなかったキートンを捉えたシンプルで美しい描写。

扉の効果的な使用は最後まで続く。終盤、プラットフォームでキートンがビーティを待つが、ついに列車からビーティが現れずに扉が閉められてしまう瞬間の絶望的な印象があるからこそ、その直後の再会にストレートに心を打たれるだろう。
ビーティの書いた詩の内容を最後まで見せないことも、抒情に流れない重要なポイントだと思う。

ジャック・ニコルソンの役どころが大変素晴らしい。ビーティとキートンの関係性も素晴らしいが、ここにニコルソンが入ってくることで、お互いがお互いを批評しあうより緊張感のある関係性が生まれている。
ビーティは、歴史が動こうとしているときに前衛的な個展の批評に励んでいるキートンを批判し、キートンは、作家としての立場を維持せず活動にのめりこむビーティを非難し、そんなキートンをニコルソンが男と革命の話に興じながら寝たいだけだろうと痛烈に皮肉ってみせる。
それにしても、このジャック・ニコルソンの役柄は面白い。実在の人物だからこそ、という点もあるだろうが、僕はすっかり、ビーティが帰ってきた夜にニコルソンは自殺するものだとばかり思っていた!

2015年9月8日火曜日

クラッシュ(1996)

監督:デヴィッド・クローネンバーグ

「交通事故は破壊的というよりは生産的出来事だ。性的エネルギーの解放だ」←最高に痺れるセリフだ。
高層ビルからハイウェイを見下ろした俯瞰ショット、夜のネオンとカメラのなまめかしい動き、女優達の無表情と恍惚の瞬間の連続性。
心理ではなく、「セックス」や「車の疾走」といった出来事によってつながれた因果が、我々を常日頃から慣れ親しんでいる通常のドラマ構造から”解放”し、極めて不安定でどこへ行くとも知れぬ不気味な語りの流れへと誘惑する。

ジェームズ・スペイダーとホリー・ハンターの出会いの何とエロティックでスリリングなことだろう。
廃車を並べた駐車場での二人の視線の交錯。この時点ではまだ、両者には”ノーマルな”道徳がまとわりついており、スペイダーの表情は事故の加害者としての自責の念を感じさせるものである。しかしホリー・ハンターは初めて両者が病院で出会ったときのようには気が立っておらず、スペイダーとの何気ない会話に興じてくる。
それからスペイダーが彼女を送っていくといって、二人のドライブが始まるわけだが、ここでの、両者の肩のあたりをクローズアップで撮った妄執的と言ってよいショットが何度もインサートされ、徐々に映画が、静かにその旋律を変える。
すると突然車が割り込んできた拍子に、スペイダーがコントロールを失い、危うく再び事故を起こしそうになる。するとホリー・ハンターがスペイダーの手に自身の手を重ね、ハンドルを操作し、安全な場所へと停車させる。何とエロティックな展開。そしてこの「再び事故を起こしそうになった」という「物語上の大事件」を前にして、まるで感情的動揺を見せぬ両者は、やがて車の中で口づけを交わし、体を重ねるだろう。
そのあまりに”不自然な”展開を、我々は何の違和感もなく受け入れてしまう。完ぺきな演出だ!

肌の傷や車体の傷への執着は不気味でじっとりしていながら、映画全体は観念的ではなくむしろ身体的で、不思議な軽やかさすら感じさせる。
キューブリックの遺作が"Fuck"というセリフで終わる2年前に、Fuckで終わる映画が創られている。
事故現場をして「芸術的作品だ」というセリフがあるが、この映画こそまさに芸術だ。