監督:ジョナサン・デミ
やっぱり傑作。
なんといってもレクター博士の脱走シーン。スキャンダラスでセンセーショナルな描写と、サスペンスとしての正確無比なイメージの構築。まったくもって凄いなぁ。
カメラの位置、カットの割り方、一瞬一瞬が驚きの連続であって、クローズアップやミドルショットが中心であるにもかかわらず、ショットの入り方、カメラの寄り方が独特であるために、空間の広がりという意味では見事な到達をみせているだろう。
キャサリン誘拐シーンの聡明なカメラワークに心を躍らせ、地下壕でのキャサリンとバッファロー・ビルの切り替えしにハッとさせられる。
クラリスの指にふれたレクターの指は、そのまま手錠を器用に外して見せる繊細な指使いの伏線だ。
唐突に挿入される回想も、たった2回しかないという慎ましやかさで、それなのにあのカメラのドリーと曇り空によって強烈な印象を残す。
あらゆる瞬間が驚きというか不意打ちというか。そして気づいたらクライマックスという。
2015年7月12日日曜日
2015年7月5日日曜日
摩天楼を夢みて
監督:ジェームズ・フォーリー
面白い。圧巻の演技合戦とはこれだ。
マッチョイムズについての考察であり、いささか大げさに過ぎる部分はあるにしても、最後まで物凄い説得力だ。照明、カッティング・イン・アクションの冴え。
ジャック・レモンのキャラクターの変遷ぶりにはビックリする。怪演。
アレック・ボールドウィンはウルフ・オブ・ウォールストリート!という感じだ。
面白い。圧巻の演技合戦とはこれだ。
マッチョイムズについての考察であり、いささか大げさに過ぎる部分はあるにしても、最後まで物凄い説得力だ。照明、カッティング・イン・アクションの冴え。
ジャック・レモンのキャラクターの変遷ぶりにはビックリする。怪演。
アレック・ボールドウィンはウルフ・オブ・ウォールストリート!という感じだ。
2015年7月4日土曜日
きみはいい子
監督:呉美保
尾野真千子が子供の手をとり、マンションの通路を歩いていく。画面の外からは池脇千鶴が子供をあやす楽しそうな声が重なり、子供はその声につられて羨ましそうに後ろを振り返る。きわめて象徴的なショットであり、事態のありようをまっすぐに伝える。
このショットによって、観客は尾野真千子の子供に同情するだろう。もちろんこのショットの前に、すでに尾野真千子に何度も叩かれるシーンが出てくるのですでに同情しているわけだが、このショットはそんな子供の境遇が、池脇千鶴の子供の境遇と残酷なまでに対比される瞬間をとらえており、「こんな暴力的な母親の元に生まれてしまったかわいそうな子」の不運さを、観客はこれでもかと見せつけられる。
にもかかわらず、喫茶店で池脇千鶴に冗談で「ウチの子になる?」と言われた少女は、真剣な顔で尾野真千子に抱き付く。尾野真千子はこの少女の気持ちを受け止めることができず、とっさにトイレに立ってしまう。少女は母親の後を追い、鍵のかかったトイレの前で泣きわめくしかない。
純粋な「母親への愛」だけなら、抱き付くだけでも良い。そうではなく、少女はトイレに立った尾野真千子を不安そうに追いかける。ここには母親の心理を繊細に汲み取りながら何とか良い関係性を維持したいと願う少女の思いがこめられてはいないか。
また、この池脇千鶴の「ウチの子になる?」というセリフは、終盤でも反復されるのだが、どうもこれはわざと言っているわけで、決して軽はずみな気持ち(だけ)で言ったわけでもなさそうである。
つまり、そうした人物達のさまざまな思いや配慮、意図を的確に示唆すること。そのことにこの映画は成功している。
あるいは誰かが誰かを見守っている、気を配っているということ。
無邪気に遊ぶ自分の娘に、尾野真千子が何度も神経質そうに視線を送るその最中に、まさに池脇千鶴が尾野真千子のことに気を配り、何とか彼女を救おうとしていたということ。それが美しい抱擁として結実すること。
あるいは、障害のある息子のことを、老婆が透明なまなざしで見守ってくれていたということ。そのことにハッと気づかされて涙が止まらなくなること。
マンションの通路も印象的だが、学校の廊下も印象的だ。長回しによって出来事が多重的に描かれるシーンがいくつかあり、なかなか優れた効果を発揮している。(教室の外に静かに横移動するカメラ!)
多くのエピソードが消化不良である。たとえばクレームをつける母親達の存在は、決して物語を押し進める存在ではなく、ひたすら社会的な諸条件として提示されるにとどまる。
あるいは高良健吾が生徒たちに出す「宿題」も、妙に偽善臭い。
しかしそれらの消化不良ぶりは同時に、高良健吾という新米教師の無力さとともにある。消化不良な形で過ぎ去ってしまうことが、その都度現実のどこにも進んでいかない諸状況として立ちはだかる。たとえば児童虐待の疑いは、証拠不十分として曖昧にされる。
そうした「物語にすらならぬ絶望的諸条件」を提示しながら、ラストシーンではそれを何とか未消化なまま終わらせずに、物語にしようとする決意が描かれている。
物語にすらならぬ閉塞状況から一歩抜け出して、物語をつくっていこうとすることそれ自体が、物語となっている。
しかしだとすればやっぱり映画は、というかフィクション映画は、その先の、つまり本来の物語を積極的に構築していくべきなのではないかとも思ってしまう。
あと、場面が転換する際の編集。叫び声→叫び声、みたいな音の重ね方を多用していて、良いんだけど、そんなに多用するもんでもないんじゃないか、と思った。ああいうのは一つぐらい、おっ、と思わせる程度に使えば良いのではないか。
しかし、全体としては、ちょっと良すぎなくらいの傑作だと思うがどうか。後から振り返ると、印象的なシーンばかりだ。
尾野真千子が子供の手をとり、マンションの通路を歩いていく。画面の外からは池脇千鶴が子供をあやす楽しそうな声が重なり、子供はその声につられて羨ましそうに後ろを振り返る。きわめて象徴的なショットであり、事態のありようをまっすぐに伝える。
このショットによって、観客は尾野真千子の子供に同情するだろう。もちろんこのショットの前に、すでに尾野真千子に何度も叩かれるシーンが出てくるのですでに同情しているわけだが、このショットはそんな子供の境遇が、池脇千鶴の子供の境遇と残酷なまでに対比される瞬間をとらえており、「こんな暴力的な母親の元に生まれてしまったかわいそうな子」の不運さを、観客はこれでもかと見せつけられる。
にもかかわらず、喫茶店で池脇千鶴に冗談で「ウチの子になる?」と言われた少女は、真剣な顔で尾野真千子に抱き付く。尾野真千子はこの少女の気持ちを受け止めることができず、とっさにトイレに立ってしまう。少女は母親の後を追い、鍵のかかったトイレの前で泣きわめくしかない。
純粋な「母親への愛」だけなら、抱き付くだけでも良い。そうではなく、少女はトイレに立った尾野真千子を不安そうに追いかける。ここには母親の心理を繊細に汲み取りながら何とか良い関係性を維持したいと願う少女の思いがこめられてはいないか。
また、この池脇千鶴の「ウチの子になる?」というセリフは、終盤でも反復されるのだが、どうもこれはわざと言っているわけで、決して軽はずみな気持ち(だけ)で言ったわけでもなさそうである。
つまり、そうした人物達のさまざまな思いや配慮、意図を的確に示唆すること。そのことにこの映画は成功している。
あるいは誰かが誰かを見守っている、気を配っているということ。
無邪気に遊ぶ自分の娘に、尾野真千子が何度も神経質そうに視線を送るその最中に、まさに池脇千鶴が尾野真千子のことに気を配り、何とか彼女を救おうとしていたということ。それが美しい抱擁として結実すること。
あるいは、障害のある息子のことを、老婆が透明なまなざしで見守ってくれていたということ。そのことにハッと気づかされて涙が止まらなくなること。
マンションの通路も印象的だが、学校の廊下も印象的だ。長回しによって出来事が多重的に描かれるシーンがいくつかあり、なかなか優れた効果を発揮している。(教室の外に静かに横移動するカメラ!)
多くのエピソードが消化不良である。たとえばクレームをつける母親達の存在は、決して物語を押し進める存在ではなく、ひたすら社会的な諸条件として提示されるにとどまる。
あるいは高良健吾が生徒たちに出す「宿題」も、妙に偽善臭い。
しかしそれらの消化不良ぶりは同時に、高良健吾という新米教師の無力さとともにある。消化不良な形で過ぎ去ってしまうことが、その都度現実のどこにも進んでいかない諸状況として立ちはだかる。たとえば児童虐待の疑いは、証拠不十分として曖昧にされる。
そうした「物語にすらならぬ絶望的諸条件」を提示しながら、ラストシーンではそれを何とか未消化なまま終わらせずに、物語にしようとする決意が描かれている。
物語にすらならぬ閉塞状況から一歩抜け出して、物語をつくっていこうとすることそれ自体が、物語となっている。
しかしだとすればやっぱり映画は、というかフィクション映画は、その先の、つまり本来の物語を積極的に構築していくべきなのではないかとも思ってしまう。
あと、場面が転換する際の編集。叫び声→叫び声、みたいな音の重ね方を多用していて、良いんだけど、そんなに多用するもんでもないんじゃないか、と思った。ああいうのは一つぐらい、おっ、と思わせる程度に使えば良いのではないか。
しかし、全体としては、ちょっと良すぎなくらいの傑作だと思うがどうか。後から振り返ると、印象的なシーンばかりだ。
2015年6月13日土曜日
海街diary
監督:是枝裕和
前作『そして、父になる』では、子供が撮っていた福山の寝顔の写真を、福山自身が発見することで、福山は何かを感じとっていた。つまり、カメラの写真が映画のひとつの重要なアイテムであった。
にもかかわらず、『海街diary』では写真という写真が省略されている。広瀬すずが走って持ってくる父親の形見の写真は、ついにスクリーンに映ることがない。家の中に飾ってある”はず”の姉妹たちの祖母、祖父の写真も、ついにスクリーンに映ることがない。映画内で死ぬことになる二人の人物の遺影も写されない。
さて、『そして、父になる』以前の是枝監督の作品を見ていないので、大きなことは言えないが、しかしこのことは『そして、父になる』からの流れからして、決しておかしくはない。
なぜなら、『そして、父になる』で重要だったのは、写真という「思い出」ではなく、カメラという「まなざし」であったからだ。福山がカメラのメモリに残された自分の写真を見て感じ取るのは、「息子のまなざし」なのだ。
そうであれば、この映画においても、是枝監督は『そして、父になる』同様、”思い出”には興味がない。重要なのは”まなざし”である。
たとえばこの映画においては、二人の人物の別れ際に、必ずと言っていいほど、片方の人物が振り返る。
大竹しのぶは、駅で綾瀬はるかと別れる際に、立ち去ってからもう一度彼女の方を見る。
堤真一は、浜辺で綾瀬はるかの元を離れる際に、もう一度振り返り、手を振る。
花火の夜に前田旺志郎と別れる広瀬すずは、去り際にもう一度彼の方を振り返る。
何かが名残惜しそうに、終わっていく。そのような感触が、映画に刻まれているようにも思える。それは、近年まれにみるシンプルで美しいアヴァンタイトルにおける、長澤まさみの”振り返り”によってすでに予感されている。
逆に大竹しのぶが姿を現すシーンにおける視線の泳ぎ方なども印象的だ。
映画全体としては、美しい瞬間や出来事、エピソードの積み重ねの合間に、時折暗い影が見え隠れするような構造で(暗い工場の夫婦、食堂の顛末、夏帆が働く店の店長、長澤まさみの恋人の顛末、、)、何らかのドラマの展開を期待させるのだが、それらは特に掘り下げられることはなく、むしろ最終的には広瀬すずの”私の居場所問題”にドラマが収斂していくのは、なんだか安易な感じもする。
たとえば綾瀬はるかと堤真一の関係性にしても、いくらなんでもあっさりしすぎではないか。
一方で、一見善良そうな体裁でありながら、広瀬すずの飲酒やヌード(!)、長澤まさみの露骨なセクシーショットなど、なかなかしたたかな映画でもあるだろう。広瀬すずの爪に長澤まさみがマニキュアを塗るシーンは、『ミツバチのささやき』を想起した。
また、序盤の、葬式に向かう電車に座る長澤まさみと夏帆の顔に当たる光、あるいは広瀬すずを後ろに乗せて前田旺志郎が自転車を漕ぐシーンなど、ちょっとビックリするぐらいに美しいシーンもある。後者のシーンなどは、本当にただこれだけで泣けてしまった。
前作『そして、父になる』では、子供が撮っていた福山の寝顔の写真を、福山自身が発見することで、福山は何かを感じとっていた。つまり、カメラの写真が映画のひとつの重要なアイテムであった。
にもかかわらず、『海街diary』では写真という写真が省略されている。広瀬すずが走って持ってくる父親の形見の写真は、ついにスクリーンに映ることがない。家の中に飾ってある”はず”の姉妹たちの祖母、祖父の写真も、ついにスクリーンに映ることがない。映画内で死ぬことになる二人の人物の遺影も写されない。
さて、『そして、父になる』以前の是枝監督の作品を見ていないので、大きなことは言えないが、しかしこのことは『そして、父になる』からの流れからして、決しておかしくはない。
なぜなら、『そして、父になる』で重要だったのは、写真という「思い出」ではなく、カメラという「まなざし」であったからだ。福山がカメラのメモリに残された自分の写真を見て感じ取るのは、「息子のまなざし」なのだ。
そうであれば、この映画においても、是枝監督は『そして、父になる』同様、”思い出”には興味がない。重要なのは”まなざし”である。
たとえばこの映画においては、二人の人物の別れ際に、必ずと言っていいほど、片方の人物が振り返る。
大竹しのぶは、駅で綾瀬はるかと別れる際に、立ち去ってからもう一度彼女の方を見る。
堤真一は、浜辺で綾瀬はるかの元を離れる際に、もう一度振り返り、手を振る。
花火の夜に前田旺志郎と別れる広瀬すずは、去り際にもう一度彼の方を振り返る。
何かが名残惜しそうに、終わっていく。そのような感触が、映画に刻まれているようにも思える。それは、近年まれにみるシンプルで美しいアヴァンタイトルにおける、長澤まさみの”振り返り”によってすでに予感されている。
逆に大竹しのぶが姿を現すシーンにおける視線の泳ぎ方なども印象的だ。
映画全体としては、美しい瞬間や出来事、エピソードの積み重ねの合間に、時折暗い影が見え隠れするような構造で(暗い工場の夫婦、食堂の顛末、夏帆が働く店の店長、長澤まさみの恋人の顛末、、)、何らかのドラマの展開を期待させるのだが、それらは特に掘り下げられることはなく、むしろ最終的には広瀬すずの”私の居場所問題”にドラマが収斂していくのは、なんだか安易な感じもする。
たとえば綾瀬はるかと堤真一の関係性にしても、いくらなんでもあっさりしすぎではないか。
一方で、一見善良そうな体裁でありながら、広瀬すずの飲酒やヌード(!)、長澤まさみの露骨なセクシーショットなど、なかなかしたたかな映画でもあるだろう。広瀬すずの爪に長澤まさみがマニキュアを塗るシーンは、『ミツバチのささやき』を想起した。
また、序盤の、葬式に向かう電車に座る長澤まさみと夏帆の顔に当たる光、あるいは広瀬すずを後ろに乗せて前田旺志郎が自転車を漕ぐシーンなど、ちょっとビックリするぐらいに美しいシーンもある。後者のシーンなどは、本当にただこれだけで泣けてしまった。
2015年5月29日金曜日
デモンシード
監督:ドナルド・キャメル
『2001年宇宙の旅』の、あの超有名にして不毛なクライマックスの映像にあからさまにインスパイアされたような映像が出てくる。
『2001年~』がきわめて精密な設計とある種の”高級感”を持ったSFであるのに対して、こちらはすごく雑(笑)。しかしこの雑さがなんとなく楽しめる。ほとんど確信犯的な語りの省略は、やりたいことだけやりましたという潔さがあるし、人工知能プロテウスが具現化した多面体の高速回転も面白い。
しかしやはり映画としての雑さは否めない。このジュリー・クリスティーはあまり良くないのではないか。
おそらくこのモチーフをより現代的に(人工知能からより生物学的、遺伝学的に)発展させたうえで、緻密な物語として完成させた映画が、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の傑作『スプライス』だろう。本作はその先駆けとして見るとなかなか味わい深い。
『2001年宇宙の旅』の、あの超有名にして不毛なクライマックスの映像にあからさまにインスパイアされたような映像が出てくる。
『2001年~』がきわめて精密な設計とある種の”高級感”を持ったSFであるのに対して、こちらはすごく雑(笑)。しかしこの雑さがなんとなく楽しめる。ほとんど確信犯的な語りの省略は、やりたいことだけやりましたという潔さがあるし、人工知能プロテウスが具現化した多面体の高速回転も面白い。
しかしやはり映画としての雑さは否めない。このジュリー・クリスティーはあまり良くないのではないか。
おそらくこのモチーフをより現代的に(人工知能からより生物学的、遺伝学的に)発展させたうえで、緻密な物語として完成させた映画が、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の傑作『スプライス』だろう。本作はその先駆けとして見るとなかなか味わい深い。
2015年5月24日日曜日
マイ・プライベート・アイダホ
監督:ガス・ヴァン・サント
『ドラッグストア・カウボーイ』と比べると、とっ散らかってるが、その分瑞々しい。ともに盗みを働く仲間たちの、お祭り騒ぎのような暴れ具合がとっても可笑しい。キアヌ・リーブスが酒瓶を一口グイっと飲んで、それを仲間に放り投げ、仲間がキャッチして、もう一人がくわえてるタバコを取りあげ、そのまま調子よく階段を上っていく、という一連の描写が、いかにも楽しいインディ映画だ。
それでいて、『ドラッグストア~』同様に、もの悲しく、切ない。
家族のような仲間と、その別れ。最後に車に乗せられて運ばれるという帰結も、『ドラッグストア~』と共通している。
あるいはホームビデオによるノスタルジックな過去の映像。
あるいは自然風景の描写。美しい風景であると同時に、それが主人公の心象風景として何度も反復され、サイケデリックな雰囲気すら獲得していく。
ある景色に捕らわれたようにぼーっとする描写というのも、『ドラッグストア~』や『誘う女』に出てきた。
夢の中でリバー・フェニックスがキアヌ・リーブスに告白して、抱擁を交わすシーンが、非常にシンプルでありながらもっとも感動的だと思う。うまいなーと思うのは、この夢のシーンが終わってリバー・フェニックスが目を覚ましたときに、彼自身のリアクションを撮らずに、バイクが停止しているところにパトカーがやってきて・・・という展開を速攻で持ってくることで、わかりやすい余韻(キアヌ・リーブスへの思いを隠して苦しんでいるのだ、という)をつくらずにあっけなく進んでいく点。
アメリカの田舎の風景とともに、イタリアの田園風景も出てくる。この田園風景がまた魅力的だ。
リバー・フェニックスの神経質そうな立ち振る舞いは、少しドゥニ・ラヴァンを思わせたりもするが、あれほど”即物的”でも”本能的”でもない。何とも言えぬもの悲しさがある。
それと、街並みの切り取りかたがやっぱり素晴らしい。キアヌ・リーブスとリバー・フェニックスが入り浸るカフェを外から映したショットなんか最高だ。その中で仲間たちが一方的に喋りまくるのを無造作につなげたような描写もたまらなく良い。
『ドラッグストア・カウボーイ』と比べると、とっ散らかってるが、その分瑞々しい。ともに盗みを働く仲間たちの、お祭り騒ぎのような暴れ具合がとっても可笑しい。キアヌ・リーブスが酒瓶を一口グイっと飲んで、それを仲間に放り投げ、仲間がキャッチして、もう一人がくわえてるタバコを取りあげ、そのまま調子よく階段を上っていく、という一連の描写が、いかにも楽しいインディ映画だ。
それでいて、『ドラッグストア~』同様に、もの悲しく、切ない。
家族のような仲間と、その別れ。最後に車に乗せられて運ばれるという帰結も、『ドラッグストア~』と共通している。
あるいはホームビデオによるノスタルジックな過去の映像。
あるいは自然風景の描写。美しい風景であると同時に、それが主人公の心象風景として何度も反復され、サイケデリックな雰囲気すら獲得していく。
ある景色に捕らわれたようにぼーっとする描写というのも、『ドラッグストア~』や『誘う女』に出てきた。
夢の中でリバー・フェニックスがキアヌ・リーブスに告白して、抱擁を交わすシーンが、非常にシンプルでありながらもっとも感動的だと思う。うまいなーと思うのは、この夢のシーンが終わってリバー・フェニックスが目を覚ましたときに、彼自身のリアクションを撮らずに、バイクが停止しているところにパトカーがやってきて・・・という展開を速攻で持ってくることで、わかりやすい余韻(キアヌ・リーブスへの思いを隠して苦しんでいるのだ、という)をつくらずにあっけなく進んでいく点。
アメリカの田舎の風景とともに、イタリアの田園風景も出てくる。この田園風景がまた魅力的だ。
リバー・フェニックスの神経質そうな立ち振る舞いは、少しドゥニ・ラヴァンを思わせたりもするが、あれほど”即物的”でも”本能的”でもない。何とも言えぬもの悲しさがある。
それと、街並みの切り取りかたがやっぱり素晴らしい。キアヌ・リーブスとリバー・フェニックスが入り浸るカフェを外から映したショットなんか最高だ。その中で仲間たちが一方的に喋りまくるのを無造作につなげたような描写もたまらなく良い。
2015年5月22日金曜日
キングの報酬
監督:シドニー・ルメット
久々に再見。じわじわと面白くなりそうで、えっ?てぐらいあっさり終わってしまうあたり、「食い足りなさ」は残るが、この「虚をつかれた感じ」こそがリチャード・ギア演じる主人公の最終的な帰結に一致するのではないか。
選挙コンサルタントを描いた映画としては、最近では"NO"があった。冒頭では南米の総選挙を前にした候補者の"Say No!"という演説がある。
音楽に合わせてビートを刻むリチャード・ギアの姿が何度も挿入される。これが彼の集中力を高めるやり方なのだろう。”候補者を当選させる”ことだけに集中して、仕事に取り掛かる。その仕事を行う場所である彼のオフィスは、やたらと天井が低く作られている。彼の相棒的存在である分析家のアジトも非常に狭い。この映画における室内のシーンの多くが、そんな狭窄感に包まれているように思う。その狭い世界の中で、候補者を政治の世界に送り込む、つまり"POWER"を操作するのが、彼の仕事であるわけだ。
ニューメキシコ州知事候補のCM撮影を行っているシーンで、モニタールームからスタジオにゆっくりと降りてくるリチャード・ギアの姿が、その揺るぎない自信と、選挙コンサルタントと候補者の力関係を一瞬で表象してしまう。
だが映画が描くのは、とことんまでにout of controlな現実世界だ。彼の知らぬところで陰謀がうごめき(しかしその陰謀の描写のなんと味気ないことか(笑))、選挙は予想外の結果を見せる。それをテレビ中継で知った彼は、呆気にとられ、ジュリー・クリスティと見つめ合う。この最後の二人の演技が大変素晴らしく、このショットですべてを許してしまう。
シークエンスはじめのロングショットがどれも素晴らしい。空港でのジーン・ハックマンとのやり取り、ホテルのカフェでジュリー・クリスティーにあてられたキラキラとした照明の美しさ。
久々に再見。じわじわと面白くなりそうで、えっ?てぐらいあっさり終わってしまうあたり、「食い足りなさ」は残るが、この「虚をつかれた感じ」こそがリチャード・ギア演じる主人公の最終的な帰結に一致するのではないか。
選挙コンサルタントを描いた映画としては、最近では"NO"があった。冒頭では南米の総選挙を前にした候補者の"Say No!"という演説がある。
音楽に合わせてビートを刻むリチャード・ギアの姿が何度も挿入される。これが彼の集中力を高めるやり方なのだろう。”候補者を当選させる”ことだけに集中して、仕事に取り掛かる。その仕事を行う場所である彼のオフィスは、やたらと天井が低く作られている。彼の相棒的存在である分析家のアジトも非常に狭い。この映画における室内のシーンの多くが、そんな狭窄感に包まれているように思う。その狭い世界の中で、候補者を政治の世界に送り込む、つまり"POWER"を操作するのが、彼の仕事であるわけだ。
ニューメキシコ州知事候補のCM撮影を行っているシーンで、モニタールームからスタジオにゆっくりと降りてくるリチャード・ギアの姿が、その揺るぎない自信と、選挙コンサルタントと候補者の力関係を一瞬で表象してしまう。
だが映画が描くのは、とことんまでにout of controlな現実世界だ。彼の知らぬところで陰謀がうごめき(しかしその陰謀の描写のなんと味気ないことか(笑))、選挙は予想外の結果を見せる。それをテレビ中継で知った彼は、呆気にとられ、ジュリー・クリスティと見つめ合う。この最後の二人の演技が大変素晴らしく、このショットですべてを許してしまう。
シークエンスはじめのロングショットがどれも素晴らしい。空港でのジーン・ハックマンとのやり取り、ホテルのカフェでジュリー・クリスティーにあてられたキラキラとした照明の美しさ。
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