せんだいメディアテークで、「フィクションの境目」と題した映画上映会に昨日・今日と行ってきた。
溝口健二とレオス・カラックスの超傑作映画が見れたのも良かったけれども、何より濱口竜介の震災後のドキュメンタリー”東北三部作”のうち二作品を見れたのが何よりの収穫だった。
リンク先の、両監督のディレクターズ・ノートが何より素晴らしい
http://silentvoice.jp/naminooto/
http://silentvoice.jp/naminokoe/
以下は『なみのおと』、『なみのこえ 新地町』を見ての感想。
『なみのおと』は震災から半年、『なみのこえ』は震災から一年後に撮られた作品。
「被災地のドキュメンタリー」と聞くと、やはり直感的に震災後の人々の生活や街の風景を映した作品かな、と思うけれども、この作品はそうではなく、何組かの現地の人たちが室内で互いに向かい合わせになって、当時のことを振り返ったり、あるいは監督と1対1で対話したり、という会話の集積で成り立っている。だから彼ら/彼女らの”日常生活”は全く出てこないし、震災後の街の風景も各パートのつなぎとしてわずかに出てくるにとどまる。
ここでは映像によって被災地を映すのではなく、会話によって語らせる、というアプローチがとられる。その新鮮さ。
作中の監督のナレーションで、「あまりに被害が大きすぎると、何もかもがなくなってしまい、かえってその被害の程度がわかりづらくなる」というものがあり、そもそも外部の人間が、被災した地域の光景を見ても、そこで何が失われたのかを知ることはできない、ということに気付かされる。現場の光景以上に何事かを語るもの、それは現地の人々の声に他ならない。
なるほど、現地の人々の声は、確かに現場の光景より雄弁で、多くのことを教えてくれる。その街の何が好きで、どういう生活をしていて、何が失われたのかを実際に教えてくれるのは、そこに住んでいた人たちの声だ。
しかし、だからといって、これらの声は、「真実を明かすこと」だけに奉仕するわけではない。
人によっては、当時の出来事を詳細に生々しく回想することもあるが、やや曖昧な語りに終始する場合もあるし、あるいは向かい合っているがゆえに、率直な感情や思いを言い辛そうな夫婦や親子もいる。
当然である。
人は他人にいちいち本音をぶつけたりしない。自分の感情と相手の感情とその場の空気のそれぞれに配慮しながら、言葉を慎重に選ぶのが人間ってものである。それは”被災者”であろうと誰であろうと変わらない。
だからこの映画は、「被災による喪失感」だとか、「日常生活における絆」といった、「被災地の真実」を語る映画ではない。
むしろ、こうした語り(合い)が示すのは、「喪失感」とか「日常のありがたみ」といった我々がついつい先んじて(勝手に)イメージしてしまう言葉や概念(もちろんこうした事を語る人々も出てくる)からはこぼれ落ちてしまうような、我々人間の普遍的な”営み”である。
そしてその営みは、びっくりするほど多様で、時にはまどろっこしく、時には物悲しく、時には見てるこちらが腹を抱えて笑ってしまうほどに可笑しい。
震災という特別な経験をした人たちのごくごく当たり前の、当たり前のように個性的な営みに、目を向け、耳を傾けること。それがこの映画が試みていることだと思われた。
2014年12月21日日曜日
2014年12月5日金曜日
ナイト・スリーパー ダム爆破計画
監督:ケイリー・ライヒャルト
ミークス・カットオフがいまだに輸入されないライヒャルト監督の新作(DVDスルー)。一回しか見てないので、備忘録的に。
ネタバレしかしてない。
まずもって、かなり巧妙なつくりである。
ダム爆破に至るプロセスでの多くの伏線、すなわち、防犯カメラの前で帽子を外してしまうダコタ・ファニング、ボートを運ぶ道中での多くの観光客、計画を練っているところに現れる通行人、爆破十数分前に現れる車(これを捉えるコーエン兄弟的ロングショットが素晴らしい)、ことを終えた帰りの検問、などなど、いずれも後々に主人公達が追いつめられることになりそうなキーショットが何度も出てくる。
しかし、実際には彼らはこれらの「ヘマ」に足元を掬われるわけではなく(つまり伏線は回収されることなく)、計画を実行したときには気付きもしなかった存在によって、心理的動揺をきたし、自滅していくわけだ。
だがこの映画の魅力はこうした計算された構成だけでは語りきれないだろう。
ボートがゆっくりとダムに接近していく様を捉えたショットの純粋な視覚的面白さ、あるいは冒頭と後半に出てくる農作業を捉えたショット群、自転車に乗ったダコタ・ファニングを捉えた移動ショット,
図書館のコンピューターでニュースを知ったアイゼンバーグを捉えたカメラがゆっくりと俯瞰へと移動していく素晴らしい演出。
こうしたいくつかの優れて映画的なショットは、しかし決して、作品の印象を決定づけるようなインパクトのあるショットとは言い難く、きわめて抑制的に、小出しにされる。この抑制的なリズムが、むしろ終盤の転調と帰結をより効果的なものにしているだろう。
ことほど左様に、終盤のサウナにおける、ダコタ・ファニングののけ反りこそが、この映画のクライマックスとなっている。
ジェシー・アイゼンバーグの主観ショットがやたらと出てくる。数えきれないがおそらく20ほどある。
一方で、その他ピーター・サースガードやダコタ・ファニングの主観ショットは全く出てこない。一か所、これはサースガードの主観ショットかな、と思うところが、ボートで湖に出て、枯れた木々に目をやるシーンだ。だがここでも、最後までそれらの木々に目をやっているのは、ジェシー・アイゼンバーグだけである。
アイゼンバーグはここでは徹底的に「見る人」としてキャラクタりぜーションされている(ラストショットも彼の主観ショットだ)。
その意図は不明確である。効果を発揮している、のかもよくわからない。
それと、三人の関係性とその動きを繊細に描写していく手腕は見事なものだと思うが(それぞれの人間に対するカメラの距離、あるいはオフで入ってくる声、などなど)、もう少し大胆に描いてほしいとも思う。
ミークス・カットオフがいまだに輸入されないライヒャルト監督の新作(DVDスルー)。一回しか見てないので、備忘録的に。
ネタバレしかしてない。
まずもって、かなり巧妙なつくりである。
ダム爆破に至るプロセスでの多くの伏線、すなわち、防犯カメラの前で帽子を外してしまうダコタ・ファニング、ボートを運ぶ道中での多くの観光客、計画を練っているところに現れる通行人、爆破十数分前に現れる車(これを捉えるコーエン兄弟的ロングショットが素晴らしい)、ことを終えた帰りの検問、などなど、いずれも後々に主人公達が追いつめられることになりそうなキーショットが何度も出てくる。
しかし、実際には彼らはこれらの「ヘマ」に足元を掬われるわけではなく(つまり伏線は回収されることなく)、計画を実行したときには気付きもしなかった存在によって、心理的動揺をきたし、自滅していくわけだ。
だがこの映画の魅力はこうした計算された構成だけでは語りきれないだろう。
ボートがゆっくりとダムに接近していく様を捉えたショットの純粋な視覚的面白さ、あるいは冒頭と後半に出てくる農作業を捉えたショット群、自転車に乗ったダコタ・ファニングを捉えた移動ショット,
図書館のコンピューターでニュースを知ったアイゼンバーグを捉えたカメラがゆっくりと俯瞰へと移動していく素晴らしい演出。
こうしたいくつかの優れて映画的なショットは、しかし決して、作品の印象を決定づけるようなインパクトのあるショットとは言い難く、きわめて抑制的に、小出しにされる。この抑制的なリズムが、むしろ終盤の転調と帰結をより効果的なものにしているだろう。
ことほど左様に、終盤のサウナにおける、ダコタ・ファニングののけ反りこそが、この映画のクライマックスとなっている。
ジェシー・アイゼンバーグの主観ショットがやたらと出てくる。数えきれないがおそらく20ほどある。
一方で、その他ピーター・サースガードやダコタ・ファニングの主観ショットは全く出てこない。一か所、これはサースガードの主観ショットかな、と思うところが、ボートで湖に出て、枯れた木々に目をやるシーンだ。だがここでも、最後までそれらの木々に目をやっているのは、ジェシー・アイゼンバーグだけである。
アイゼンバーグはここでは徹底的に「見る人」としてキャラクタりぜーションされている(ラストショットも彼の主観ショットだ)。
その意図は不明確である。効果を発揮している、のかもよくわからない。
それと、三人の関係性とその動きを繊細に描写していく手腕は見事なものだと思うが(それぞれの人間に対するカメラの距離、あるいはオフで入ってくる声、などなど)、もう少し大胆に描いてほしいとも思う。
2014年10月10日金曜日
チャイルド・コール
監督:ポール・シュレットアウネ
(ネタバレ注意)
まず、素晴らしい色使いについて。
ノオミ・ラパスの青、そして電気屋の店員のオレンジのユニフォームを基調としながら、それらの色の散りばめ方が極めてハイセンスだ。喫茶店、学校の会議室などの空間の取り方も絶妙といえる。
こうした視覚的な心地よさの一方で、ジャンプカットの多用、あるいは男女の話のぎこちなさによって、居心地の悪さもまたこの映画では同居している。
そんな中際立つのが、カメラのパンの使い方である。冒頭の、タクシーを降りたノオミ・ラパスを捉えたカメラがパンすると、息子アンデシュがそこにいる。
母親から息子への流れるようなパンが、この映画の主題とリンクしながら何度も使用される。
どういうことか。
映画が最後に明らかにするのは、息子アンデシュが母親の幻であったことだ。息子とは虚構の存在である。
逆にカメラのパンとは、持続した時間の中で対象Aから対象Bへと視点を変えることで、そこに「本当らしさ」を定着させようとする演出だと言える。
この映画の作り手が、虚構と現実の狭間で揺れるストーリーを撮るにあたって、このパンを意図的に採用したのは間違いないだろう。
その証拠に、この映画でもっとも重要な湖のシーンでも同様の撮り方がなされている。
森を抜けて、ノオミ・ラパスがこちら側に歩いてくるのをフォローしながら、そのまま180度カメラがパンして、その先にある湖を映し出す。
これは実は駐車場だった、というのも含めて本作で合計3回出てくるシーンであって、まさにこの映画の中核となるショットである。
現実から虚構へと流れる持続ショット。
それはある意味で「意外な結末に向けて張り巡らされた様々な複線」のひとつとして、あくまで戦略的に採用された演出なのかもしれない。しかしだからといって、この「本当らしさ」が、観客を「騙す」ためのものであると断定してはいけない。
結末を完全に予想できなくとも、上記の、「湖だと思っていた場所が駐車場であった」という衝撃的なエピソードが中盤にあることもあって、観るものは次第にこの映画のいくつかのシーンや存在は、虚構であろう、と予測できるようになっている。つまり、この映画における持続ショットは、「騙す」
ことを意図しているというよりは、現実と虚構の境界に注意を促し、さらに言えば虚構を虚構と認めたうえで、なお何事かを描こうという態度の表れでもあるだろう。
そうした目で見たとき、とりわけその虚構性を体現するのが、森だ。
ノオミ・ラパスが森へと向かうのは、全部で3回だが、このうち一回は息子アンデシュと、ほかの二回は一人でである。そしてこの二回の、ノオミ・ラパスが一人で森へと向かうシーンは、どちらもそのきっかけとして、別の住人が森へと向かっていくのをノオミ・ラパスが目撃することで始まる。
この、住人が森へと向かっていくのを後ろから捉えたノオミ・ラパスの主観ショットの、なんとも言えぬファンタジックな印象はどうだろう。
美しいピアノの旋律をバックに、緩やかな時間の流れが取り戻され、そうしたノオミ・ラパスは湖へと誘(いざな)われる。
誰とも知らぬ人に、引き付けられるようにして、森へと向かっていく、というのは、まさしくファンタジー映画の定番である。
虚構と現実の境目が曖昧なサスペンス映画でありながら、このシーンはその虚構の虚構性を豊かに描写してみせる。
それは、「虚構=嘘=騙されてはいけない」という現実からの上から目線とは程遠い、「虚構=映画=おとぎ話」という戯れに、寄り添いながら豊かに演出するつくり手の姿勢の表れである。
だからこそ逆説的に、この虚構が、虚構であることの悲劇性が、強調されるのである。
あらかじめ引き裂かれることを運命付けられた美しい画が、ストーリーの進行とともに、予想通りに残酷に引き裂かれながら(ノオミ・ラパスが飛び降りるその瞬間もまた、持続したパンで撮られていることに注意されたい!)、悲劇のラストを迎える。しかし美しい画は、美しいイメージは、残る。
映画が単なるストーリーテリングではないのは、この一点においてだ。
イメージは残る。
ラストに示される湖は、一体誰の、いつの記憶なのだろうか。そしてあれは現実なのか、それとも虚構なのか。こうしたことがはっきりとは示されないまま、その美しい湖のイメージが、ストップモーションによって残される。
ストップ・モーションは「反運動」であると同時に、「反物語」なのだ。それはまさに、映画がストーリーを語ることで置き忘れていったイメージを、ストーリーの横に、あるいはストーリーの残余に、甦らせようとする、悲劇的な試みなのだ。
一方で、クライマックスにおける二つの悲劇。一つはノオミ・ラパスによる管理人の殺害、そしてノオミ・ラパスの飛び降り。
この二つのシーンはどちらも持続ショットによって描かれている。前者は部屋から玄関へと包丁を持って行くノオミ・ラパスをフォローし、後者は部屋に乗り込んだ男からパンして、丁度飛び降りた彼女の背中を捉える。ここはまさに、現実→現実へと視点が送られる、「本当」のシーンなのである。
この同じ技法の使い分け。これはまさに一種の戦略であるが、しかし上記のラストシーンなども含め、決して虚構が虚構であることによっていささかもその力を落とさないところに、この映画の凄さがあるのだろう。
前作『隣人 ネクストドア』も、非常に緊張感のある傑作スリラーである。
そしてこの二作品の、非常にわかりやすいで共通項が、「傷、汚れ」のモチーフである。
『ネクストドア』における血痕、そして『チャイルドコール』におけるびしょびしょに濡れた服とその汚れ。これらは、現実と虚構の視覚的な架け橋として非常にうまく使われている。
次の作品が楽しみの人。
(ネタバレ注意)
まず、素晴らしい色使いについて。
ノオミ・ラパスの青、そして電気屋の店員のオレンジのユニフォームを基調としながら、それらの色の散りばめ方が極めてハイセンスだ。喫茶店、学校の会議室などの空間の取り方も絶妙といえる。
こうした視覚的な心地よさの一方で、ジャンプカットの多用、あるいは男女の話のぎこちなさによって、居心地の悪さもまたこの映画では同居している。
そんな中際立つのが、カメラのパンの使い方である。冒頭の、タクシーを降りたノオミ・ラパスを捉えたカメラがパンすると、息子アンデシュがそこにいる。
母親から息子への流れるようなパンが、この映画の主題とリンクしながら何度も使用される。
どういうことか。
映画が最後に明らかにするのは、息子アンデシュが母親の幻であったことだ。息子とは虚構の存在である。
逆にカメラのパンとは、持続した時間の中で対象Aから対象Bへと視点を変えることで、そこに「本当らしさ」を定着させようとする演出だと言える。
この映画の作り手が、虚構と現実の狭間で揺れるストーリーを撮るにあたって、このパンを意図的に採用したのは間違いないだろう。
その証拠に、この映画でもっとも重要な湖のシーンでも同様の撮り方がなされている。
森を抜けて、ノオミ・ラパスがこちら側に歩いてくるのをフォローしながら、そのまま180度カメラがパンして、その先にある湖を映し出す。
これは実は駐車場だった、というのも含めて本作で合計3回出てくるシーンであって、まさにこの映画の中核となるショットである。
現実から虚構へと流れる持続ショット。
それはある意味で「意外な結末に向けて張り巡らされた様々な複線」のひとつとして、あくまで戦略的に採用された演出なのかもしれない。しかしだからといって、この「本当らしさ」が、観客を「騙す」ためのものであると断定してはいけない。
結末を完全に予想できなくとも、上記の、「湖だと思っていた場所が駐車場であった」という衝撃的なエピソードが中盤にあることもあって、観るものは次第にこの映画のいくつかのシーンや存在は、虚構であろう、と予測できるようになっている。つまり、この映画における持続ショットは、「騙す」
ことを意図しているというよりは、現実と虚構の境界に注意を促し、さらに言えば虚構を虚構と認めたうえで、なお何事かを描こうという態度の表れでもあるだろう。
そうした目で見たとき、とりわけその虚構性を体現するのが、森だ。
ノオミ・ラパスが森へと向かうのは、全部で3回だが、このうち一回は息子アンデシュと、ほかの二回は一人でである。そしてこの二回の、ノオミ・ラパスが一人で森へと向かうシーンは、どちらもそのきっかけとして、別の住人が森へと向かっていくのをノオミ・ラパスが目撃することで始まる。
この、住人が森へと向かっていくのを後ろから捉えたノオミ・ラパスの主観ショットの、なんとも言えぬファンタジックな印象はどうだろう。
美しいピアノの旋律をバックに、緩やかな時間の流れが取り戻され、そうしたノオミ・ラパスは湖へと誘(いざな)われる。
誰とも知らぬ人に、引き付けられるようにして、森へと向かっていく、というのは、まさしくファンタジー映画の定番である。
虚構と現実の境目が曖昧なサスペンス映画でありながら、このシーンはその虚構の虚構性を豊かに描写してみせる。
それは、「虚構=嘘=騙されてはいけない」という現実からの上から目線とは程遠い、「虚構=映画=おとぎ話」という戯れに、寄り添いながら豊かに演出するつくり手の姿勢の表れである。
だからこそ逆説的に、この虚構が、虚構であることの悲劇性が、強調されるのである。
あらかじめ引き裂かれることを運命付けられた美しい画が、ストーリーの進行とともに、予想通りに残酷に引き裂かれながら(ノオミ・ラパスが飛び降りるその瞬間もまた、持続したパンで撮られていることに注意されたい!)、悲劇のラストを迎える。しかし美しい画は、美しいイメージは、残る。
映画が単なるストーリーテリングではないのは、この一点においてだ。
イメージは残る。
ラストに示される湖は、一体誰の、いつの記憶なのだろうか。そしてあれは現実なのか、それとも虚構なのか。こうしたことがはっきりとは示されないまま、その美しい湖のイメージが、ストップモーションによって残される。
ストップ・モーションは「反運動」であると同時に、「反物語」なのだ。それはまさに、映画がストーリーを語ることで置き忘れていったイメージを、ストーリーの横に、あるいはストーリーの残余に、甦らせようとする、悲劇的な試みなのだ。
一方で、クライマックスにおける二つの悲劇。一つはノオミ・ラパスによる管理人の殺害、そしてノオミ・ラパスの飛び降り。
この二つのシーンはどちらも持続ショットによって描かれている。前者は部屋から玄関へと包丁を持って行くノオミ・ラパスをフォローし、後者は部屋に乗り込んだ男からパンして、丁度飛び降りた彼女の背中を捉える。ここはまさに、現実→現実へと視点が送られる、「本当」のシーンなのである。
この同じ技法の使い分け。これはまさに一種の戦略であるが、しかし上記のラストシーンなども含め、決して虚構が虚構であることによっていささかもその力を落とさないところに、この映画の凄さがあるのだろう。
前作『隣人 ネクストドア』も、非常に緊張感のある傑作スリラーである。
そしてこの二作品の、非常にわかりやすいで共通項が、「傷、汚れ」のモチーフである。
『ネクストドア』における血痕、そして『チャイルドコール』におけるびしょびしょに濡れた服とその汚れ。これらは、現実と虚構の視覚的な架け橋として非常にうまく使われている。
次の作品が楽しみの人。
2014年9月23日火曜日
プロミスト・ランド
監督:ガス・ヴァン・サント
ジョン・クラジンスキーがハル・ホルブルックに”証拠写真”を提示するショットの古典的な感覚が面白い。
それと、ラスト近くで、マット・デイモンが少女の売るレモネードを買うシーンでは、マット・デイモンが渡すお札、そして少女が返すお釣りがそれぞれ「クシャクシャ」、「チャリンチャリン」という印象的な音を立てている。
アヴァンタイトル。レストランの洗面所での洗顔シーンから続いて、マット・デイモンをフォローしたカメラは天井に向けてティルトアップして、カットを割ってマット・デイモンがぐるっと一周回って席に着くまでを、横移動で捉える。この時、食事をして談笑する客、あるいは息の合ったコンビネーションでテーブルクロスをさっと敷くウェイターが手前に捉えられているのが素晴らしい。続く夜のハイウェイの俯瞰ショットが幻想的で美しい。かと思えば、舞台となる町の、ハル・ホルブルックの納屋の内側から外を捉えたタイトルショットも素晴らしい。
こうやって始まる映画。こんな素晴らしい始まり方をする映画なのだ、これは。
町長とマット・デイモンがカフェで落ち合うシーン。
ここでは、最初に町長が乗り気な風を見せているが、ウェイトレスがコーヒーを持ってきたのをきっかけとして、マット・デイモンに対する不信感をあらわにする。この転換の前後に、二人を横から撮ったショットがインサートされるが、最初は窓ガラス側から二人を撮っていて、今度は逆側から、つまり逆光で二人を撮っている。二人の会話が、まさに陽から陰(逆光)へと転換する。という演出だろうか、これは。
こんな小手先のテク。いや、これが良いのだ。
ここでは、最初に町長が乗り気な風を見せているが、ウェイトレスがコーヒーを持ってきたのをきっかけとして、マット・デイモンに対する不信感をあらわにする。この転換の前後に、二人を横から撮ったショットがインサートされるが、最初は窓ガラス側から二人を撮っていて、今度は逆側から、つまり逆光で二人を撮っている。二人の会話が、まさに陽から陰(逆光)へと転換する。という演出だろうか、これは。
こんな小手先のテク。いや、これが良いのだ。
上記したシーンでは、ウェイトレスが注文を取りに、コーヒーを運びに、そして伝票を渡しに、二人の席にやってくるわけだが、本作では基本的に、誰かが話してると、誰かがやってきて、物語が動く、ということを割と徹底していて、小気味が良い。
冒頭のマット・デイモンと上司の会話中に遅れてやってくるお偉方、体育館の集会終わりに入ってくるバスケチーム、マクドーマンドの歌唱後にいきなり舞台に上がるジョン・クラジンスキー、マット・デイモンとクラジンスキーの会話中に店に入ってくるローズマリー・デウィット、、、別に物語が動いてるわけではないか。でも、一個一個のシーンが中心化されないというか、そういう面白さがある。
マット・デイモンとローズマリー・デウィットの関係性はとっても素晴らしい。それは画面が素晴らしいのだ。
まず、二人が初めてバーで出会うシーンで、気軽に話し始める二人を、最初カメラは「ほぼ内側」(というのも、マット・デイモンの頬はちょっとだけ映ってる)から捉えているのだが、ローズマリー・デウィット(いい名前だ)が一歩マット・デイモンに近寄る瞬間にさっと引いてフルショットで捉えると、それ以降の切り替えしは二人を同一画面で撮っている。文字通り二人の距離グッと近づいた、という。
それと、誰もが賞賛するであろう、デウィットの家の、玄関まで続くあの傾斜。そしてその傾斜をマット・デイモンが歩いていくのをまったく同じ移動ショットで反復する演出の素晴らしさ。
この、歩く、とか、走る、とかが、反復される映画に弱いのだけど。たとえばロッセリーニの『不安』だとか、『夜よ、こんにちは』であるとか、『エレニの帰郷』(は、同構図ではないが、むしろ180℃反対のショットでイレーヌ・ジャコブの歓喜の走りを反復している)であるとか。ああ、このショットに、この動作に、このカメラワークに、何かが託されている、という感覚。はっきり言えばもうこのショットだけで、大満足と言ってよい。
地味な題材でありながら数えきれない細部が映画を盛り立てる。しかし何よりマット・デイモンとマクドーマンドの掛け合いが素晴らしい。まず、二人が初めてバーで出会うシーンで、気軽に話し始める二人を、最初カメラは「ほぼ内側」(というのも、マット・デイモンの頬はちょっとだけ映ってる)から捉えているのだが、ローズマリー・デウィット(いい名前だ)が一歩マット・デイモンに近寄る瞬間にさっと引いてフルショットで捉えると、それ以降の切り替えしは二人を同一画面で撮っている。文字通り二人の距離グッと近づいた、という。
それと、誰もが賞賛するであろう、デウィットの家の、玄関まで続くあの傾斜。そしてその傾斜をマット・デイモンが歩いていくのをまったく同じ移動ショットで反復する演出の素晴らしさ。
この、歩く、とか、走る、とかが、反復される映画に弱いのだけど。たとえばロッセリーニの『不安』だとか、『夜よ、こんにちは』であるとか、『エレニの帰郷』(は、同構図ではないが、むしろ180℃反対のショットでイレーヌ・ジャコブの歓喜の走りを反復している)であるとか。ああ、このショットに、この動作に、このカメラワークに、何かが託されている、という感覚。はっきり言えばもうこのショットだけで、大満足と言ってよい。
ジョン・クラジンスキーがハル・ホルブルックに”証拠写真”を提示するショットの古典的な感覚が面白い。
それと、ラスト近くで、マット・デイモンが少女の売るレモネードを買うシーンでは、マット・デイモンが渡すお札、そして少女が返すお釣りがそれぞれ「クシャクシャ」、「チャリンチャリン」という印象的な音を立てている。
2014年9月18日木曜日
孤独な場所で
監督:ニコラス・レイ
オープニングはハンフリー・ボガートの車が走っているところから始まるが、このシーン以来しばらくの間、人物の場所から場所への移動は省略される。最もわかりやすいところでいえば、殺されることになる女性の「帰り道」は大胆にも省略され、我々がその女性が殺されたことを知るのは、警察署でのボガートの事情聴取においてである。
しかし、中盤にさしかかったところで、再び「移動」が描かれる。それは海辺での夕食の際に憤慨したハンフリー・ボガートがそのまま車を走らせ、慌ててグロリア・グレアムがそこに乗り、そのまま車を走らせるシーンだ。そして右折しようとしたところで直進してきた車両と接触、相手の運転手が怒ってボガートの方に来て怒鳴りつけると、そこでボガートのスイッチが入り、あやうく殺しそうになってしまう。
思えばオープニングはボガートのスイッチが入りかけたところで信号が青になって相手の車が走り去ってしまったことで、何事もなく終わり、印象としては「喧嘩っ早いおっさん」程度のものでしかなかったのだが、同じようなシチュエーションが反復され、しかも二回目はエスカレートしてボガートの「本当の姿」が露わになる、という実に巧妙な構成をとっている。全くもって素晴らしい演出。
場所から場所への移動。事件はその間に起こるのだ。
それと。
この映画は、いわゆる夫(や恋人)が実は異常者だった、あるいは異常者なのではないか、という映画で、同じような系統の作品としては、ヒッチコックの『断崖』、ファスビンダーの『マルタ』、シャブロルの『愛の地獄』などがあげられるだろう。それとショーン・ペンの『プレッジ』などもその帰結が印象的だ。
『愛の地獄』や『プレッジ』は、作者の視点が異常者側にあるため、どちらかといえばその妄執ぶりに観客は付き合うことになる。
一方で、『断崖』や『マルタ』などは、女の側から見た男の異常さが強調されるため、観客はその「恐怖」や「不安」に同化するよう意図されている、と言えるかもしれない。
『孤独な場所で』はその中間といった感じで、確かに周りから見たボガートの異常さを強調する演出がとられている(上記のシーンや、あるいは警部とその妻との初めての夕食など)が、一方でこの映画にはアート・スミス演じる長年のマネージャーがいる。
レストランでの騒動で、ボガートがアート・スミスの目を傷つけてしまい、その後トイレで苦い和解をするシーンがある。
このときのアート・スミスが「他に仕事もないし・・・」と言いながら握手を求める所作の面白さ。この二人の関係が、この映画を単なるスリラーでもなく、単なる妄執映画でもなく、重厚な人間ドラマにしていると言って良いだろう。
これは傑作。
オープニングはハンフリー・ボガートの車が走っているところから始まるが、このシーン以来しばらくの間、人物の場所から場所への移動は省略される。最もわかりやすいところでいえば、殺されることになる女性の「帰り道」は大胆にも省略され、我々がその女性が殺されたことを知るのは、警察署でのボガートの事情聴取においてである。
しかし、中盤にさしかかったところで、再び「移動」が描かれる。それは海辺での夕食の際に憤慨したハンフリー・ボガートがそのまま車を走らせ、慌ててグロリア・グレアムがそこに乗り、そのまま車を走らせるシーンだ。そして右折しようとしたところで直進してきた車両と接触、相手の運転手が怒ってボガートの方に来て怒鳴りつけると、そこでボガートのスイッチが入り、あやうく殺しそうになってしまう。
思えばオープニングはボガートのスイッチが入りかけたところで信号が青になって相手の車が走り去ってしまったことで、何事もなく終わり、印象としては「喧嘩っ早いおっさん」程度のものでしかなかったのだが、同じようなシチュエーションが反復され、しかも二回目はエスカレートしてボガートの「本当の姿」が露わになる、という実に巧妙な構成をとっている。全くもって素晴らしい演出。
場所から場所への移動。事件はその間に起こるのだ。
それと。
この映画は、いわゆる夫(や恋人)が実は異常者だった、あるいは異常者なのではないか、という映画で、同じような系統の作品としては、ヒッチコックの『断崖』、ファスビンダーの『マルタ』、シャブロルの『愛の地獄』などがあげられるだろう。それとショーン・ペンの『プレッジ』などもその帰結が印象的だ。
『愛の地獄』や『プレッジ』は、作者の視点が異常者側にあるため、どちらかといえばその妄執ぶりに観客は付き合うことになる。
一方で、『断崖』や『マルタ』などは、女の側から見た男の異常さが強調されるため、観客はその「恐怖」や「不安」に同化するよう意図されている、と言えるかもしれない。
『孤独な場所で』はその中間といった感じで、確かに周りから見たボガートの異常さを強調する演出がとられている(上記のシーンや、あるいは警部とその妻との初めての夕食など)が、一方でこの映画にはアート・スミス演じる長年のマネージャーがいる。
レストランでの騒動で、ボガートがアート・スミスの目を傷つけてしまい、その後トイレで苦い和解をするシーンがある。
このときのアート・スミスが「他に仕事もないし・・・」と言いながら握手を求める所作の面白さ。この二人の関係が、この映画を単なるスリラーでもなく、単なる妄執映画でもなく、重厚な人間ドラマにしていると言って良いだろう。
これは傑作。
2014年9月12日金曜日
フライトゲーム
監督:ジャウマ・コレット・セラ
『アンノウン』は超面白かった。あまり覚えてないが、成りすましの人と大学で対面して同じセリフをまくし立てるとこの振り切れ感とか、あるいは美術館での熟成した演出の手際だとか、ダイアン・クルーガーとか、そもそも『フランティック』じゃないかこれは!という感じが。ついでに言えば車の逆走なんかも笑わせてもらった。
(『アンノウン』はとにかく笑えるアクションなのだ。)
で、『フライト・ゲーム』なのだが、まず冒頭いきなりリーアム・ニーソンがウイスキーを飲んでるのをスローモーションで映してる。
「え、トニスコ?」とびっくりしてると、急にフルショットで引いて、離陸する飛行機をバックにした見事な構図でリーアム・ニーソンがおさまる。良いオープニングだ。
で、そのあとの空港のシーンでは、やたら被写界深度の浅い画面が続く。ニーソンが注意を送る人物にだけフォーカスのあたったよく分かんない画面が続くのだが、これもトニスコなのだろうか?よくわからない。
が、全編見た上で言うなら、この空港のシーンは結局何がしたいのかわからん。
空港ってさ、高い天井に、ランダムに行き交う多国籍の人々がいて、バリバリ仕事できるスッチーがいて、長い動く歩道があるわけじゃん。そういう空間的条件ガン無視で、これかよ。。。
『アンノウン』はホテルや大学の空間造形が冴えてませんでしたっけと。
(このあたりでもうバレバレなのだが、僕はコレット・セラは『アンノウン』しか見てません。すみません。)
さて、まぁ機内でのサスペンスに関して書いてると終わらないので、要所だけ。
まず、乗客がまるで面白くない。ウェス・クレイヴンの『パニック・フライト』のような魅力的な乗客がいない。リーアム・ニーソンの隣に坐るのは、おいおいジュリアン・ムーアかよ。まるで盛り上がらない。あの医者にしても、何もしてないじゃないか!(当たり前だ、分子神経科学者だもの。)
メールのやりとりがひどい。まるで緊張感がない。
「こっちには理由があるぞ」→「どんな理由だ」→「十分な理由だ」
はぁ?みたいな。
あと、TSA本部とのやりとりも全然緊張感がなくて、「うわぁ、これじゃリーアム・ニーソンがテロリストにされちゃうぞ~!」っていうサスペンスがなくて、気づいたら「お前がテロリストだべ?」みたいな。いやぁ。
でもこれも予算不足で本部の撮影ができなかったんだろう。知らないが。
あと、確かに極限状況での疑心暗鬼とそれを打開するアクション、みたいな構図があって、これは脚本の大きな旨味だと思うのだが、これもあまり盛り上がらない。
まずモブ=乗客へのディレクションが中途半端である。誤報ニュースを見ても、あまり騒がない。「不自然」とかいうわけではなく、これでは盛り上がらないだろう。
しかし予算の問題もあるだろうし、乗客があんまり騒ぐと収集つかなくて本当に何もできなくなりそうだし、まぁ良い。
ジュリアン・ムーアは悠長に酒を飲んでるし、そもそもお前みたいなババァが非常事態でも自由気ままでいる女とか演じても少しも魅力的じゃないことに気付け。出演を断れ。
あと、極限状況での疑心暗鬼とそれを打開するアクションとか説得って、さんざん色々やられてきて、それこそ"I believe you."なんてセリフは、本当にアメリカ映画の最大の武器、って感じがするけども、でももっと良い"I believe you."があったのではないか。
で、あと、このシーン、この瞬間、この顔を撮るんだ!っていう意気込みを全く感じないんだよね。
I believe you.にしても、うーんこのクローズアップでいいの?みたいな。
犯人の動機はちょっとなめすぎだと思うし(でもこれは色んな意見がありそう)。
飛行機内のアクション映画ってあまり見たことがないので、ちょっと色々見たい。『フライト・ゲーム』を見ると、なんかやりにくそうだな、という印象があるが。
なんだろうな、もう全体としてはぁ?って感じで、乗客全員死んでいいと思っちまったよ。
『アンノウン』は超面白かった。あまり覚えてないが、成りすましの人と大学で対面して同じセリフをまくし立てるとこの振り切れ感とか、あるいは美術館での熟成した演出の手際だとか、ダイアン・クルーガーとか、そもそも『フランティック』じゃないかこれは!という感じが。ついでに言えば車の逆走なんかも笑わせてもらった。
(『アンノウン』はとにかく笑えるアクションなのだ。)
で、『フライト・ゲーム』なのだが、まず冒頭いきなりリーアム・ニーソンがウイスキーを飲んでるのをスローモーションで映してる。
「え、トニスコ?」とびっくりしてると、急にフルショットで引いて、離陸する飛行機をバックにした見事な構図でリーアム・ニーソンがおさまる。良いオープニングだ。
で、そのあとの空港のシーンでは、やたら被写界深度の浅い画面が続く。ニーソンが注意を送る人物にだけフォーカスのあたったよく分かんない画面が続くのだが、これもトニスコなのだろうか?よくわからない。
が、全編見た上で言うなら、この空港のシーンは結局何がしたいのかわからん。
空港ってさ、高い天井に、ランダムに行き交う多国籍の人々がいて、バリバリ仕事できるスッチーがいて、長い動く歩道があるわけじゃん。そういう空間的条件ガン無視で、これかよ。。。
『アンノウン』はホテルや大学の空間造形が冴えてませんでしたっけと。
(このあたりでもうバレバレなのだが、僕はコレット・セラは『アンノウン』しか見てません。すみません。)
さて、まぁ機内でのサスペンスに関して書いてると終わらないので、要所だけ。
まず、乗客がまるで面白くない。ウェス・クレイヴンの『パニック・フライト』のような魅力的な乗客がいない。リーアム・ニーソンの隣に坐るのは、おいおいジュリアン・ムーアかよ。まるで盛り上がらない。あの医者にしても、何もしてないじゃないか!(当たり前だ、分子神経科学者だもの。)
メールのやりとりがひどい。まるで緊張感がない。
「こっちには理由があるぞ」→「どんな理由だ」→「十分な理由だ」
はぁ?みたいな。
あと、TSA本部とのやりとりも全然緊張感がなくて、「うわぁ、これじゃリーアム・ニーソンがテロリストにされちゃうぞ~!」っていうサスペンスがなくて、気づいたら「お前がテロリストだべ?」みたいな。いやぁ。
でもこれも予算不足で本部の撮影ができなかったんだろう。知らないが。
あと、確かに極限状況での疑心暗鬼とそれを打開するアクション、みたいな構図があって、これは脚本の大きな旨味だと思うのだが、これもあまり盛り上がらない。
まずモブ=乗客へのディレクションが中途半端である。誤報ニュースを見ても、あまり騒がない。「不自然」とかいうわけではなく、これでは盛り上がらないだろう。
しかし予算の問題もあるだろうし、乗客があんまり騒ぐと収集つかなくて本当に何もできなくなりそうだし、まぁ良い。
ジュリアン・ムーアは悠長に酒を飲んでるし、そもそもお前みたいなババァが非常事態でも自由気ままでいる女とか演じても少しも魅力的じゃないことに気付け。出演を断れ。
あと、極限状況での疑心暗鬼とそれを打開するアクションとか説得って、さんざん色々やられてきて、それこそ"I believe you."なんてセリフは、本当にアメリカ映画の最大の武器、って感じがするけども、でももっと良い"I believe you."があったのではないか。
で、あと、このシーン、この瞬間、この顔を撮るんだ!っていう意気込みを全く感じないんだよね。
I believe you.にしても、うーんこのクローズアップでいいの?みたいな。
犯人の動機はちょっとなめすぎだと思うし(でもこれは色んな意見がありそう)。
飛行機内のアクション映画ってあまり見たことがないので、ちょっと色々見たい。『フライト・ゲーム』を見ると、なんかやりにくそうだな、という印象があるが。
なんだろうな、もう全体としてはぁ?って感じで、乗客全員死んでいいと思っちまったよ。
2014年8月14日木曜日
サンライズ
監督:F・W・ムルナウ
今更何を言うことがあるのか、という映画だが、要点は、1)展開的にも撮影の観点からも、この映画はまさに"巻き込まれ型"の活劇であること。2)手のアップがあっても良いんじゃないの?ということ。
とりわけ涙なくして見れぬ前半30~40分ぐらいの撮影のスタイル。空間を大きく取り、主要人物を画面手前に配し、奥や背景を強調するそれは、夫とその浮気相手が都会の暮らしを夢想するシーン、路面バスの中の撮影、そして路面バスを降りた直後の撮影で見られる。
路面バスにおいて、特にジャネット・ゲイナーは夫に殺されかけたショックでうまく動けない。路面バスでもじっとうつむいて固まっている。夫の方もどうしていいかわからず、立ちすくむばかりだ。一方で路面バスは快調な速度で街へ向かい、カメラはバスの窓から見える街の景色(が高速で過ぎていく様)を捉える。手前でじっと立ちすくむ二人と、奥の景色の対比がここでは行われている。(照明の当たり方なども影響して)ここではどちらかといえば奥の高速で移動する景色が画面の主役になっている。
路面バスが停車すると、ジャネット・ゲイナーが降りていく。彼女は夫から逃げるのだが、街は車の往来が激しく、うまく道路を渡れない。このときゲイナーは固まっているというよりは、ふらふらしている。ふらー、ふらー、といった感じで、それをカメラがまた滑らかな移動撮影で捉えるのだが、ここでもやはりジャネット・ゲイナー以上に、激しい車の往来が画面の主役となっている。
要するに、この二人は都会の街並みに"巻き込まれ"ているのである。夫と妻の心理ドラマであったはずの映画は、いつしか都会の街の激しさに圧倒され、ただただ"リアクション"することしかできない二人を描くようになる。
そしてこの手前に夫婦、奥に街の光景、という画面構図は二人が入った喫茶店、そして教会のシーンでも踏襲されることになる。
教会の構図。結婚式の模様が左奥で演じられ、右手前に夫婦二人がやってくる。この構図は本当に感動的だ。まるでメアリー・ピックフォードが『雀』の中で見る天使の幻覚のようだ。
そして前半のクライマックスは道路の真ん中で二人が口づけを交わすシーンだろう。
このシーンが感動的なのは、二人がついに画面の主役になるからだ。
街の車の往来にふらふらと"リアクション"するしかなかった二人が、道路(そして画面)の真ん中で口づけを交わし、街を一瞬"掌握"し、街の人々を"リアクション"側に回す。もっと言えば、街を"見て"はおろおろするしかなかった二人が、初めて"見られる"存在となる。その瞬間をこんな風に捉えて見せること。大傑作たるゆえんはここだろう。
その後も農民のダンスによって再び二人は画面の主役になるだろう。
さて、最後に手のアップショットについて書こう。これは主に最初の夫が妻を殺そうとするシーンで、どうせなら夫の手のアップを撮ったらどうか、と思った次第。フリッツ・ラングみたいに。フリッツ・ラングの映画では、よく手のアップがある。『ビッグヒート』の最初のショットとか、『飾窓の女』の殺害シーンとか。この手のアップというのは、どこか運動を心理から解放せしめる効果があるように思えて気に入っている。手自体の"意志"というか。
一応『サンライズ』でも、藁を用意する夫の手のアップがある。
ま、どうでもいい。とにかくこれはやっぱり当たり前のようにめちゃくちゃ傑作。
ジャネット・ゲイナーが見つからなくても泣けないが、見つかると泣ける。つまりゲイナーの姿、笑顔、存在そのものがこの映画では神秘的なまでに泣けてしまう。
今更何を言うことがあるのか、という映画だが、要点は、1)展開的にも撮影の観点からも、この映画はまさに"巻き込まれ型"の活劇であること。2)手のアップがあっても良いんじゃないの?ということ。
とりわけ涙なくして見れぬ前半30~40分ぐらいの撮影のスタイル。空間を大きく取り、主要人物を画面手前に配し、奥や背景を強調するそれは、夫とその浮気相手が都会の暮らしを夢想するシーン、路面バスの中の撮影、そして路面バスを降りた直後の撮影で見られる。
路面バスにおいて、特にジャネット・ゲイナーは夫に殺されかけたショックでうまく動けない。路面バスでもじっとうつむいて固まっている。夫の方もどうしていいかわからず、立ちすくむばかりだ。一方で路面バスは快調な速度で街へ向かい、カメラはバスの窓から見える街の景色(が高速で過ぎていく様)を捉える。手前でじっと立ちすくむ二人と、奥の景色の対比がここでは行われている。(照明の当たり方なども影響して)ここではどちらかといえば奥の高速で移動する景色が画面の主役になっている。
路面バスが停車すると、ジャネット・ゲイナーが降りていく。彼女は夫から逃げるのだが、街は車の往来が激しく、うまく道路を渡れない。このときゲイナーは固まっているというよりは、ふらふらしている。ふらー、ふらー、といった感じで、それをカメラがまた滑らかな移動撮影で捉えるのだが、ここでもやはりジャネット・ゲイナー以上に、激しい車の往来が画面の主役となっている。
要するに、この二人は都会の街並みに"巻き込まれ"ているのである。夫と妻の心理ドラマであったはずの映画は、いつしか都会の街の激しさに圧倒され、ただただ"リアクション"することしかできない二人を描くようになる。
そしてこの手前に夫婦、奥に街の光景、という画面構図は二人が入った喫茶店、そして教会のシーンでも踏襲されることになる。
教会の構図。結婚式の模様が左奥で演じられ、右手前に夫婦二人がやってくる。この構図は本当に感動的だ。まるでメアリー・ピックフォードが『雀』の中で見る天使の幻覚のようだ。
そして前半のクライマックスは道路の真ん中で二人が口づけを交わすシーンだろう。
このシーンが感動的なのは、二人がついに画面の主役になるからだ。
街の車の往来にふらふらと"リアクション"するしかなかった二人が、道路(そして画面)の真ん中で口づけを交わし、街を一瞬"掌握"し、街の人々を"リアクション"側に回す。もっと言えば、街を"見て"はおろおろするしかなかった二人が、初めて"見られる"存在となる。その瞬間をこんな風に捉えて見せること。大傑作たるゆえんはここだろう。
その後も農民のダンスによって再び二人は画面の主役になるだろう。
さて、最後に手のアップショットについて書こう。これは主に最初の夫が妻を殺そうとするシーンで、どうせなら夫の手のアップを撮ったらどうか、と思った次第。フリッツ・ラングみたいに。フリッツ・ラングの映画では、よく手のアップがある。『ビッグヒート』の最初のショットとか、『飾窓の女』の殺害シーンとか。この手のアップというのは、どこか運動を心理から解放せしめる効果があるように思えて気に入っている。手自体の"意志"というか。
一応『サンライズ』でも、藁を用意する夫の手のアップがある。
ま、どうでもいい。とにかくこれはやっぱり当たり前のようにめちゃくちゃ傑作。
ジャネット・ゲイナーが見つからなくても泣けないが、見つかると泣ける。つまりゲイナーの姿、笑顔、存在そのものがこの映画では神秘的なまでに泣けてしまう。
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