監督:矢崎仁司
幾度となくその大きな図体を、何の恥じらいもなく画面の中央でさらしてみせる東京タワーや、あるいは幾度となく女性たちの背後を、まるで彼女たちの運命を、時には嘲笑い、時には見守るように通っていくJR線の存在が、この4人の女性を主人公にした群像劇が、東京を舞台としていることをはっきりと宣言してはいるものの、しかしながらこの映画で驚くのは、東京特有の「人口密度」や「喧噪」が不在であることだ。
中村優子と安藤正信が訪れる居酒屋にしても、池脇千鶴が働くことになるラーメン屋にしても、そこには人気がほとんど感じられない(逆に池脇千鶴がデリヘル嬢を連れてラーメン屋にやってくるシーンの充実感の新鮮さ)。
それは彼女たちの場所から場所への移動のほとんどが省略されているからというのもあるかもしれないが、一方で彼女たち自身が人との接触を避けているからでもあるだろう。
中越典子はオフィスではほとんど誰とも接しないのだし、あるいは岩瀬塔子は体調不良で倒れようと、そこに駆けつけて救助しようとする人々の手を払いのけようとする。
気恥ずかしいぐらいに強調される東京のシンボルが、逆説的に彼女たちの「疎外」を印象づける。
池脇千鶴が、消灯した東京タワーに向かって「おやすみぃ」と無邪気さとアンニュイさが混ざったような可愛い声でつぶやいたり、あるいは中村優子が去っていく安藤正信を見送りながら、「またねっ」と呟くシーンは、彼女たちの「他者との接触」への飢えを物語っているといえるだろう。これらのシーンはワンショットの持続の中で実に実に印象的なイメージとして見る者の記憶に焼きつくことだろう。
そしてこの映画は、物語とイメージの力でもって、彼女たちを見事に「接触」させてしまう。
中村優子が、安藤正信が恋人と月を眺めている光景を目撃したショックで捨てたトマトが、岩瀬塔子によって拾われ、そのトマトが岩瀬塔子にインスピレーションを与え、岩瀬は絵を完成させる(この絵を完成させる一連の俯瞰のシーンも非常に良い)。そしてその絵が実は業者の依頼ミスであることが発覚して、岩瀬はこの絵を破棄する。そしてその絵が池脇千鶴によって拾われ、それがやがて岩瀬塔子のもとへと渡る。
あるいは、物理的な手の接触もまた、この映画では実に印象的だ。
池脇千鶴の母親の恋人が、中村優子の手を握る(ロングショットに引くことで、このシーンは実に見事に喜劇として回収されている)、あるいは中村優子の手に触れてくれない安藤正信。
あるいは、終盤の新幹線でのシーン。
中越典子と岩瀬塔子が入口で向かい合っていると、そこに「赤の他人」が乗ってきて、中越典子に接触する。この映画でこれほど明確に主人公と「赤の他人」(それは東京と言っていいかもしれない)が物理的に接触するシーンはないだろう。
そしてその接触の結果、中越典子はバランスを崩して倒れそうになり、岩瀬塔子がそれを支える。正確には手を握る。
そうして握られた二人の手は、決して離れることはないだろう。これほど感動的な「手を握る」という運動は見たことがない(「あなたのこと、ずっと嫌いだった」というセリフも泣ける)。
あるいは逆に、この幾度となく登場する東京タワーについて考えてみよう。
かつて黒沢清は、東京を舞台にする映画でも、東京タワーのようなわかりやすい表象は撮らないようにしていると述べていた。北野武もまた、東京タワーのようなわかりやすいものを撮る監督はダメだ、と言っている。
この映画はどうかというと、アホみたいにタワーが出てくる。そして池脇千鶴を夕食に誘った店長は、その東京タワーを見て「綺麗だね」と、話のネタにしようとする。
あるいは満月。映画の多くの人物が、「恋人と満月を見たい」という願望におかされている。
つまりこの映画の多くの人物達が、実にわかりやすい表象(タワー、満月、占い)にとらわれているのだ。
そうやって目の前のわかりやすい大きな物語に飛びついてきた中越典子が、偶然岩瀬塔子の嘔吐を目撃してしまうとき、中越典子は、如何に自分が何も見えていなかったかに気づかされる。
だからこそ、上記の「あなたのこと、ずっと嫌いだった」というセリフには泣かされる。
これはそういう映画だ。
光の繊細な感覚、フィックスショットの絶妙な持続のさせ方、そしてあの屋上の美しい美しい撮影など、ほとんど信じがたいレベルの邦画だと思う。ゼロ年代の、これはベストだね。
2012年11月27日火曜日
2012年11月24日土曜日
合衆国最後の日
監督:ロバート・アルドリッチ
素晴らしいね。震えた。
最初から二個目の、カーテン越しにヒゲを剃る大統領を捉えたショットがまずもって素晴らしいのだが、カーテン越しに大統領を捉えたショットが中盤に再び出てくる。それは問題の文書を読んで立ち尽くしている大統領の姿だ。そしてこの素晴らしいショットから始まる、超ストレートな政治的議論の物凄い迫力。ホワイトハウスで一番左派っぽいザックと大統領を捉えたショットの強度、そしてここぞというときに繰り出される俯瞰ショット。
あるいはその直後の大統領と副官のやり取りの面白さ。それは部屋のフルショットの妙な緊張感に裏打ちされていると言えるだろう。
あるいは、ゴールド作戦とその顛末の描き方。画面4分割の状態で、各現場が大混乱する様を同時に描いちゃうっていう大胆さ。この作戦の終盤の音のカオスっぷりは凄い。とにかくみんな怒鳴り散らしてるのだが、全く何を言ってるのかわからない。しかしそうするうちにミサイルはどんどん地上へとせり出していく。この緊迫感の醸成。
サイロ3に通じるトンネルのショットはどれもかっこいい。
ゴールド作戦の大混乱と対照的に、クライマックスは実に静的な、硬直しきった緊張感だ。
大統領とランカスターがついに対峙するシーンの、あの縦の構図。
あるいはその直前の、監視カメラ越しに見つめ合う両者。
ランカスターと大統領は、どちらも世界の秩序を動かす巨大なシステムに抗おうとする二人だ。映画はその全く立場の異なる両者が対峙する瞬間を、これ以上ない強度で演出してみせる。
超スーパー大傑作!
素晴らしいね。震えた。
最初から二個目の、カーテン越しにヒゲを剃る大統領を捉えたショットがまずもって素晴らしいのだが、カーテン越しに大統領を捉えたショットが中盤に再び出てくる。それは問題の文書を読んで立ち尽くしている大統領の姿だ。そしてこの素晴らしいショットから始まる、超ストレートな政治的議論の物凄い迫力。ホワイトハウスで一番左派っぽいザックと大統領を捉えたショットの強度、そしてここぞというときに繰り出される俯瞰ショット。
あるいはその直後の大統領と副官のやり取りの面白さ。それは部屋のフルショットの妙な緊張感に裏打ちされていると言えるだろう。
あるいは、ゴールド作戦とその顛末の描き方。画面4分割の状態で、各現場が大混乱する様を同時に描いちゃうっていう大胆さ。この作戦の終盤の音のカオスっぷりは凄い。とにかくみんな怒鳴り散らしてるのだが、全く何を言ってるのかわからない。しかしそうするうちにミサイルはどんどん地上へとせり出していく。この緊迫感の醸成。
サイロ3に通じるトンネルのショットはどれもかっこいい。
ゴールド作戦の大混乱と対照的に、クライマックスは実に静的な、硬直しきった緊張感だ。
大統領とランカスターがついに対峙するシーンの、あの縦の構図。
あるいはその直前の、監視カメラ越しに見つめ合う両者。
ランカスターと大統領は、どちらも世界の秩序を動かす巨大なシステムに抗おうとする二人だ。映画はその全く立場の異なる両者が対峙する瞬間を、これ以上ない強度で演出してみせる。
超スーパー大傑作!
人生の特等席
監督:ロバート・ローレンス
イーストウッドは朝目覚めるなり一人で愚痴ばかり言っている。あるいは亡き妻の墓石に語りかける。
ジャスティン・ティンバーレイクは、少年野球を見ながら自分の録音機に向かって実況中継をし始める。
このように、この映画の主人公たちは冒頭からして、ひたすら一方通行の発話をしている。
この二人の人物とエイミーアダムスを主軸に映画は進む。
エイミー・アダムスは何度もイーストウッドと対話しようとするが、イーストウッドはそれを真面目には受け止めず、全て受け流そうとする。そんなイーストウッドに腹を立てるエイミー・アダムスは、この映画で幾度となくイーストウッドに背を向けることになるだろう。イーストウッドもまた、その後ろ姿を茫然と見つめることしかできない。
エイミーアダムスをナンパした男を追い払った後のシーンでは、エイミー・アダムスとイーストウッドが言い争い、アダムスは部屋へ歩き、イーストウッドはその逆方向へと歩く。つまり二人はお互いに背中を向ける。その二人の背中を茫然とティンバーレイクが見つめる。
ティンバーレイクとアダムスが三塁側のスペースで野球を見るシーンでは、小気味良いやり取りのあと去ろうとするアダムスに、ティンバーレイクが「弁護士にしては知りすぎだ」と言うと、アダムスがティンバーレイクの方を振り返って「理由があるのよ」と誤魔化し、素敵な笑顔を見せる。
背中を向け合っていた人物たちが、徐々に心を開き、振り返り、そして向かい合う。
しかし人と人が向き合えばたちまち問題が発生する。それは彼ら、彼女らが今まで心に閉まっていた本音をついにぶつけあうからだ。
喫茶店でのイーストウッドとアダムスの言い合い、あるいはティンバーレイクの車の前に立ちはだかるエイミー・アダムス。
ああ、そして、お互いの本音をぶつけあった二人は、終盤のとってつけたような大味な展開を、ほとんど言葉もなく見つめ合い、頬笑み合いながら見届けることになるだろう。(そして観客もまた、そのイメージとともに、このベッタベタな展開を最高の気分で喜んで見届けることになるだろう)
イーストウッド、アダムス、ティンバーレイクの、「背中を見せる」、「振り返る」、そして「向かい合う」という運動をしっかりと捉えること。
車の窓越しにこちらを見つめるエイミー・アダムスの顔を、振り向きざまに最高の笑顔を見せるアダムスの姿を、子供のようにグラウンドを走るアダムスを見つめるイーストウッドの顔を、しっかりと捉えること。
物語がもつ重要な契機を、運動を、その豊かなイメージとともにしっかりと強調すること。
だからラストは当然、エイミー・アダムスの背中を見つめ、静かに去っていくイーストウッドの背中を捉える俯瞰になるわけだ。それは、それまでのディスコミュニケーション的性格の冷たい背中ではなく、信頼とか愛情とか照れとか、そういうのが詰まった暖かい背中だ。
まさにアメリカ映画の真髄。
超傑作。
イーストウッドは朝目覚めるなり一人で愚痴ばかり言っている。あるいは亡き妻の墓石に語りかける。
ジャスティン・ティンバーレイクは、少年野球を見ながら自分の録音機に向かって実況中継をし始める。
このように、この映画の主人公たちは冒頭からして、ひたすら一方通行の発話をしている。
この二人の人物とエイミーアダムスを主軸に映画は進む。
エイミー・アダムスは何度もイーストウッドと対話しようとするが、イーストウッドはそれを真面目には受け止めず、全て受け流そうとする。そんなイーストウッドに腹を立てるエイミー・アダムスは、この映画で幾度となくイーストウッドに背を向けることになるだろう。イーストウッドもまた、その後ろ姿を茫然と見つめることしかできない。
エイミーアダムスをナンパした男を追い払った後のシーンでは、エイミー・アダムスとイーストウッドが言い争い、アダムスは部屋へ歩き、イーストウッドはその逆方向へと歩く。つまり二人はお互いに背中を向ける。その二人の背中を茫然とティンバーレイクが見つめる。
ティンバーレイクとアダムスが三塁側のスペースで野球を見るシーンでは、小気味良いやり取りのあと去ろうとするアダムスに、ティンバーレイクが「弁護士にしては知りすぎだ」と言うと、アダムスがティンバーレイクの方を振り返って「理由があるのよ」と誤魔化し、素敵な笑顔を見せる。
背中を向け合っていた人物たちが、徐々に心を開き、振り返り、そして向かい合う。
しかし人と人が向き合えばたちまち問題が発生する。それは彼ら、彼女らが今まで心に閉まっていた本音をついにぶつけあうからだ。
喫茶店でのイーストウッドとアダムスの言い合い、あるいはティンバーレイクの車の前に立ちはだかるエイミー・アダムス。
ああ、そして、お互いの本音をぶつけあった二人は、終盤のとってつけたような大味な展開を、ほとんど言葉もなく見つめ合い、頬笑み合いながら見届けることになるだろう。(そして観客もまた、そのイメージとともに、このベッタベタな展開を最高の気分で喜んで見届けることになるだろう)
イーストウッド、アダムス、ティンバーレイクの、「背中を見せる」、「振り返る」、そして「向かい合う」という運動をしっかりと捉えること。
車の窓越しにこちらを見つめるエイミー・アダムスの顔を、振り向きざまに最高の笑顔を見せるアダムスの姿を、子供のようにグラウンドを走るアダムスを見つめるイーストウッドの顔を、しっかりと捉えること。
物語がもつ重要な契機を、運動を、その豊かなイメージとともにしっかりと強調すること。
だからラストは当然、エイミー・アダムスの背中を見つめ、静かに去っていくイーストウッドの背中を捉える俯瞰になるわけだ。それは、それまでのディスコミュニケーション的性格の冷たい背中ではなく、信頼とか愛情とか照れとか、そういうのが詰まった暖かい背中だ。
まさにアメリカ映画の真髄。
超傑作。
2012年11月23日金曜日
その男、凶暴につき
監督:北野武
どっからどう切り取っても傑作であって、もうイチイチ書く事すら躊躇してしまう程だが、しかし決定的なのはやはり更衣室のシーンだろう。
それまで映画は、武の過剰な暴力を見せつつも、それらは例えば新米の菊池の存在や、あるいはスローモーションなどによって「笑い」へと回収されていた。
だが更衣室のシーンではどうだろう。
まず更衣室の外に立っている菊池の姿をカメラは捉える。そして中からドン!という音が何度も聞こえてくる。しばらくすると、菊池の姿と更衣室の中で白竜が殴られているショットが交互にモンタージュされる。それまで映画を(そしてこのシーンでもまた)「笑い」へと誘っていた菊池と、白竜の殴られるショットのモンタージュ。
そしてシーンはいよいよ更衣室の中へとフォーカスされる。そして決定的なショットが、壁にもたれて座り込んだ白竜とそれを見下ろす武の切り返しショットだ。ここでは、それぞれの「キチガイ」が、交互に真正面からカメラで捉えられる。そしてこのショットを最後に、映画から「笑い」が排除される。
クライマックスの演出の強度は圧倒的だ。武が登場するタイミング、そして扉を開けると光が差込み、白竜と武が縦の構図で捉えられる。こんなことを処女作でやってしまうというのはちょっと信じがたい。
川上麻衣子と武が帰り道に通る河川敷の俯瞰ショットの嘘みたいな叙情性。
どっからどう切り取っても傑作であって、もうイチイチ書く事すら躊躇してしまう程だが、しかし決定的なのはやはり更衣室のシーンだろう。
それまで映画は、武の過剰な暴力を見せつつも、それらは例えば新米の菊池の存在や、あるいはスローモーションなどによって「笑い」へと回収されていた。
だが更衣室のシーンではどうだろう。
まず更衣室の外に立っている菊池の姿をカメラは捉える。そして中からドン!という音が何度も聞こえてくる。しばらくすると、菊池の姿と更衣室の中で白竜が殴られているショットが交互にモンタージュされる。それまで映画を(そしてこのシーンでもまた)「笑い」へと誘っていた菊池と、白竜の殴られるショットのモンタージュ。
そしてシーンはいよいよ更衣室の中へとフォーカスされる。そして決定的なショットが、壁にもたれて座り込んだ白竜とそれを見下ろす武の切り返しショットだ。ここでは、それぞれの「キチガイ」が、交互に真正面からカメラで捉えられる。そしてこのショットを最後に、映画から「笑い」が排除される。
クライマックスの演出の強度は圧倒的だ。武が登場するタイミング、そして扉を開けると光が差込み、白竜と武が縦の構図で捉えられる。こんなことを処女作でやってしまうというのはちょっと信じがたい。
川上麻衣子と武が帰り道に通る河川敷の俯瞰ショットの嘘みたいな叙情性。
黒の試走車
監督:増村保造
なんと渋い傑作。派手さは皆無だが、すべてのシーンが素晴らしい強度を持っている。
会議室の映画だと言えるだろう。ある者とある者が議論をし、そこに別のものが口を挟む、という一連のやりとりを、カメラがそのたびに視点を変え、構図⇒逆構図の切り返しを積み重ねながら、随所に仰角のフルで引き締める。冒頭の会議で高松英朗が最後に立ち上がる瞬間、カッティング・イン・アクションで仰角に引く間合いが完璧。
なんと渋い傑作。派手さは皆無だが、すべてのシーンが素晴らしい強度を持っている。
会議室の映画だと言えるだろう。ある者とある者が議論をし、そこに別のものが口を挟む、という一連のやりとりを、カメラがそのたびに視点を変え、構図⇒逆構図の切り返しを積み重ねながら、随所に仰角のフルで引き締める。冒頭の会議で高松英朗が最後に立ち上がる瞬間、カッティング・イン・アクションで仰角に引く間合いが完璧。
2012年11月22日木曜日
ふがいない僕は空を見た
監督:タナダユキ
永山絢斗が丸めて捨てた紙くずを捉えたタイトル・ショットがとてもいい。
画面の外から聞こえてくる声や音。
永山絢斗を引きとめようとする田端智子の叫び声、家に帰った田端智子の耳に聞こえる盗撮動画の音、窪田正孝のノックに対して居留守を使う母親が立ててしまった物音、電話越しに聞こえる田端智子の姑の嫌み。田端智子が合わせて歌うアニメソングとそれにかぶさる裁縫マシーンのガタガタという音。
とりわけ印象的なのが、窪田正孝とバイトの同僚の女がビラを撒いてはしゃいだシーンの直後にどっかの民家から聞こえる悲鳴。
多くの画面外の音が、画面内の人物に対して「重たい現実」としてのしかかってくる。田端智子と永山絢斗が私服で交わるシーンの嘘みたいな透明感や永山絢斗と同級生の女生徒とのキスシーンと対比されるようにして。
前半はこんな感じで快調に進んでいくのだが、後半はその現実がひたすら「リアルな現実」として、世の中の縮図として綺麗におさまり、そのリアルには確かに心を打たれるが、しかしそれ以上いかない。映画がリアルを越えようとせず、言語的になってしまう。
あるいは前半の、極めて断片的な描写、前後の流れを無視し、それだけで成り立たせんというばかりの「運動性」に対し、後半はその前半の断片性を「論理的に」説明していくものでしかない。
田端智子のキャラクターの形容しがたい浮遊感は、「不妊とそれによる家族からの圧力に悩む主婦」というステレオタイプなそれに回収されるのだし、窪田正孝もまた現実の若者の不幸をなぞっているに過ぎない。
現実の不幸をなぞっているというのは、別に私が同じような境遇の若者を知っているとかそういう事ではなく、「団地住まいです。婆ちゃんが認知症です。両親がどうしようもないです。コンビニでバイトしています。金がないです」という説明的な描写によって誰もが了承できるレベルであるという事だ。繰り返すが、別にそれでもいい。もっと悲惨なものを描けとかそういう事でもない。現実の不幸を身にまとうことがダメとは言わないが、しかし映画とはそうした「説明可能な現実」とは別の何かが、あるいは我々が現実において見逃している「細部」が、ふとした瞬間に「非リアル」として、つまり「緩やかな時間」として立ち現れるのを捉えるものではなかったか。
おそらく、腹を空かせた窪田正孝が原田美枝子のつくった弁当を見つけ、それをたまらず頬張るという描写にこそ、その瞬間は訪れるべきだったかもしれないが、監督はそれに自覚的なのかどうかわからないが、とにかくこのシーンを全力で演出しなかった点に、この映画がいかに言語的であるかが表れている。
遠くから自転車がやってくるショットやあるいは自転車と並行しての撮影など、なかなか気に入るショットがあったので、タナダユキはオリジナル脚本で撮ってはどうか。
永山絢斗が丸めて捨てた紙くずを捉えたタイトル・ショットがとてもいい。
画面の外から聞こえてくる声や音。
永山絢斗を引きとめようとする田端智子の叫び声、家に帰った田端智子の耳に聞こえる盗撮動画の音、窪田正孝のノックに対して居留守を使う母親が立ててしまった物音、電話越しに聞こえる田端智子の姑の嫌み。田端智子が合わせて歌うアニメソングとそれにかぶさる裁縫マシーンのガタガタという音。
とりわけ印象的なのが、窪田正孝とバイトの同僚の女がビラを撒いてはしゃいだシーンの直後にどっかの民家から聞こえる悲鳴。
多くの画面外の音が、画面内の人物に対して「重たい現実」としてのしかかってくる。田端智子と永山絢斗が私服で交わるシーンの嘘みたいな透明感や永山絢斗と同級生の女生徒とのキスシーンと対比されるようにして。
前半はこんな感じで快調に進んでいくのだが、後半はその現実がひたすら「リアルな現実」として、世の中の縮図として綺麗におさまり、そのリアルには確かに心を打たれるが、しかしそれ以上いかない。映画がリアルを越えようとせず、言語的になってしまう。
あるいは前半の、極めて断片的な描写、前後の流れを無視し、それだけで成り立たせんというばかりの「運動性」に対し、後半はその前半の断片性を「論理的に」説明していくものでしかない。
田端智子のキャラクターの形容しがたい浮遊感は、「不妊とそれによる家族からの圧力に悩む主婦」というステレオタイプなそれに回収されるのだし、窪田正孝もまた現実の若者の不幸をなぞっているに過ぎない。
現実の不幸をなぞっているというのは、別に私が同じような境遇の若者を知っているとかそういう事ではなく、「団地住まいです。婆ちゃんが認知症です。両親がどうしようもないです。コンビニでバイトしています。金がないです」という説明的な描写によって誰もが了承できるレベルであるという事だ。繰り返すが、別にそれでもいい。もっと悲惨なものを描けとかそういう事でもない。現実の不幸を身にまとうことがダメとは言わないが、しかし映画とはそうした「説明可能な現実」とは別の何かが、あるいは我々が現実において見逃している「細部」が、ふとした瞬間に「非リアル」として、つまり「緩やかな時間」として立ち現れるのを捉えるものではなかったか。
おそらく、腹を空かせた窪田正孝が原田美枝子のつくった弁当を見つけ、それをたまらず頬張るという描写にこそ、その瞬間は訪れるべきだったかもしれないが、監督はそれに自覚的なのかどうかわからないが、とにかくこのシーンを全力で演出しなかった点に、この映画がいかに言語的であるかが表れている。
遠くから自転車がやってくるショットやあるいは自転車と並行しての撮影など、なかなか気に入るショットがあったので、タナダユキはオリジナル脚本で撮ってはどうか。
2012年11月20日火曜日
水の中の八月
監督:石井聡亙
『水の中の八月』というタイトルがすでに泣ける。
飛び込みの撮り方、飛び込み台を中心に仰角の横移動で見せるのは凄いカッコいいんだけど、何回やってんの!とか、途中の飛び込みをMTVみたいに細かく見せるの鬱陶しいとか、中盤の山登りとかもうどうでもええわ!とか、まぁいろいろ文句はつけたいのだが、しかしこれが決定的に泣ける。例えば終盤、葉月泉が川で振り向いて真魚にテレパシーを送るとこ、あれ、テレパシーの内容をオフで流すわけで、んなことやったらアカンやろ、って感じなのだけど、なぜかそのテレパシーが泣けちゃう。あるいは、この振り向いたときの葉月泉が、この映画の中でダントツに可愛い。
決定的に泣けてしまうのは、ふとした瞬間の美しい光景の強度ゆえだろう。
特に好きなのが博多祭りのシーンで、真魚が「この匂い、水が蒸発する匂い、、、」とつぶやくと、画面手前にいる泉が、目を閉じてスーっと息を吸い込むショット。素晴らしい。
あるいは何度か出てくるバイクのシーン。最初は肩に手をおいていただけの泉が、中盤では抱きついて居眠りをしている。でもことさらに勿体つけて見せないんだね。あるいはそこから急速に二人の愛が深まるわけでもなくて、本当に何ともなしに、泉が真魚に背中に寄りかかってるショットを、ほんのちょっとだけ見せるっていう、この慎ましさが良い。
真魚がプールに飛び込んで泉を救出するショットも、まぁこの題材なら当然あるわけだが、でもこの映画はちょっと異質な感覚を帯びてるよね。というのも、その直前、つまり泉が飛び込むシーンで、変な合成映像みたいのブッ込んでくるから、「うお、何この実験映画ライクな演出ww」となって、ちょっと虚を突かれた直後に、この美しいショットが出てくるもんだから、余計に感動しちゃうんだ。
ラストもいいね。最後をこういう風に終わらせるなんて思ってもいなかった。
泉がつけてた日記も、なんか泣ける。
そして幻想の中で泉が老いた真魚を抱きしめるショットが凄く良い。
映画としてはほんのラスト数分のうちに、半ば強引に時間を早送りさせてるのに、このショットただ一つだけで、真魚が生きた年月を感じさせてくれるのだ。そしてその、何と悲しく、儚い人生だろうか。
何かこう、すべてを許してしまいたくなる映画だ。
『水の中の八月』というタイトルがすでに泣ける。
飛び込みの撮り方、飛び込み台を中心に仰角の横移動で見せるのは凄いカッコいいんだけど、何回やってんの!とか、途中の飛び込みをMTVみたいに細かく見せるの鬱陶しいとか、中盤の山登りとかもうどうでもええわ!とか、まぁいろいろ文句はつけたいのだが、しかしこれが決定的に泣ける。例えば終盤、葉月泉が川で振り向いて真魚にテレパシーを送るとこ、あれ、テレパシーの内容をオフで流すわけで、んなことやったらアカンやろ、って感じなのだけど、なぜかそのテレパシーが泣けちゃう。あるいは、この振り向いたときの葉月泉が、この映画の中でダントツに可愛い。
決定的に泣けてしまうのは、ふとした瞬間の美しい光景の強度ゆえだろう。
特に好きなのが博多祭りのシーンで、真魚が「この匂い、水が蒸発する匂い、、、」とつぶやくと、画面手前にいる泉が、目を閉じてスーっと息を吸い込むショット。素晴らしい。
あるいは何度か出てくるバイクのシーン。最初は肩に手をおいていただけの泉が、中盤では抱きついて居眠りをしている。でもことさらに勿体つけて見せないんだね。あるいはそこから急速に二人の愛が深まるわけでもなくて、本当に何ともなしに、泉が真魚に背中に寄りかかってるショットを、ほんのちょっとだけ見せるっていう、この慎ましさが良い。
真魚がプールに飛び込んで泉を救出するショットも、まぁこの題材なら当然あるわけだが、でもこの映画はちょっと異質な感覚を帯びてるよね。というのも、その直前、つまり泉が飛び込むシーンで、変な合成映像みたいのブッ込んでくるから、「うお、何この実験映画ライクな演出ww」となって、ちょっと虚を突かれた直後に、この美しいショットが出てくるもんだから、余計に感動しちゃうんだ。
ラストもいいね。最後をこういう風に終わらせるなんて思ってもいなかった。
泉がつけてた日記も、なんか泣ける。
そして幻想の中で泉が老いた真魚を抱きしめるショットが凄く良い。
映画としてはほんのラスト数分のうちに、半ば強引に時間を早送りさせてるのに、このショットただ一つだけで、真魚が生きた年月を感じさせてくれるのだ。そしてその、何と悲しく、儚い人生だろうか。
何かこう、すべてを許してしまいたくなる映画だ。
登録:
投稿 (Atom)