監督・脚本:ライアン・ジョンソン
ダニエル・クレイグ演じる探偵が、アナ・デ・アルマス演じる看護師をガイド役に謎解きを展開するミステリー映画。
映画は、各々のキャラクターの証言を切り口に、事件があった日の出来事を回想として描いていく。同じ出来事を異なる視点で描くことで、事態の全体像を漸進的に明らかにしていく手法をとっていて、部屋の向こうから聞こえてきた会話が、別の回想ではその会話の当事者の視点で描かれる。あるいは、先に回想シーンを描いたうえで、その内容を証言者が「ごまかす」という順番もある(例えばC.プラマーに浮気のことを問い詰められた事を
、ドン・ジョンソンがごまかすといった具合)。こうした、物事の裏と表を、視点の移動による見え方のギャップによって、物語を様々な方向に複層的に展開していく、まずはその巧みな脚本を褒めるべきだろう。正直、冒頭から回想が何度も挿入されたときには、「またフラッシュバックの多用か」と辟易してしまったのだが、意外にも映画はそれによってリズムを失うことがない。これは、回想以外のシーンの演出、カット捌きが非常にエキサイティングであることによるだろう。
特に、一通りの尋問が終わったあと、部屋の外へ出ていくトニ・コレット→C.プラマーの部屋で手紙を探すドン・ジョンソン→そのジョンソンが外に投げた野球ボールを後景に、邸宅から出てくる探偵と刑事を捉えたショット→アナ・デ・アルマスが聞き耳を立ててるところにダニエル・クレイグが窓の外からヌッと現れるショットの連鎖が素晴らしい。というか、この一連のシークエンスで一気に映画が加速した印象を持った。
あるいは、邸宅周囲の風景の、70年代のイギリス映画のようなしっとりとした美しさも忘れ難い。
さて、ではこの映画は、物語の意外性、視点を変えることで真実が変わっていくことのおもしろさに尽きるかというと、それだけにとどまらない。
この映画の最大の魅力は、真実が明らかになるにつれ、アナ・デ・アルマス演じる看護師のパーソナリティがどんどん深みを増していく点だろう。
人の好さそうな、しかしちょっと内気で危うさを抱えた看護師が、様々な出来事を機転に、大胆さと狡猾さを露わにしていく。
例えば庭先の足あとをズタズタ歩いて消してしまうところ、ビデオテープのネガをこっそり回収してしまうところ、火災現場でD・クレイグに見つかり、決死のカーチェイスを展開するところ、クリス・エヴァンスにゲロをお見舞いするところ、、、と、事態の展開とともに彼女自身が覚醒していく、まさにヒッチコック的な活劇を体現していくのが素晴らしい。それでありながら、看護師としての人徳すらも巧妙に映画としてフィーチャーするのだから、まったく見事な脚本、演出と言うほかあるまい。
ラストの、コーヒーをすする姿は天晴れである。
いかがわしくも優しいダニエル・クレイグ、ジェイミー・リー・カーティスの発狂ぶり、マイケル・シャノンの悪役ぶりも素晴らしい。
「ドーナツの穴が埋まったと思ったら、それもまたドーナツ」(大意)というセリフも素晴らしい。
『女神の見えざる手』に匹敵する、文句なしの娯楽作品。
2020年3月13日金曜日
2020年1月27日月曜日
リチャード・ジュエル
監督:クリント・イーストウッド
出演:ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、ニナ・アリアンダ
制服の映画である。
冒頭から警備員の服装に身を包んだジュエルの姿が描写され、彼の私服姿は出てこない。
映画の中心となる中央公園での仕事では、背中に「SECURITY」と書かれた白ポロシャツを着ている。これは彼にとっては不本意な仕事なのだが、それでも彼は嬉しそうにこの制服を着て、たくましく仕事をしている。妊婦に水を上げるサービス精神を見せつつ、少しでも怪しい人間を見たら妥協せず追いかける。
彼が制服を脱ぐのは、FBIに訓練用ビデオという嘘の理由で同行させられてからである。逆にそれまでは、家の中でもずっと「SECURITY」のポロシャツを着ているのだ。そしてFBIでの一件があって、サム・ロックウェル演じる弁護士ワトソンが家にやってきてからは、それまでと打って変わって、彼はずっと私服である。
権威を疑い始めること、権威から敵視されること。それが、制服を脱いで私服になるということだ。反骨精神の塊のようなサム・ロックウェルが、いつもカジュアルな恰好をしているというのも、明確なコントラストとして表現されるだろう(ついでに言えば、アトランタ・ジャーナルの記者もまた、冒頭でもっと胸元が開いた服を着ようかしら、などと言っている。このあたりは後述。)。
映画のクライマックスは、キャシー・ベイツの涙の会見のあと、ジュエルとワトソンでFBIのオフィスに行って尋問を受けるシーンである。このシーンの直前に映画は、ジュエルとワトソンが各々の場所で、ネクタイを締める様子を「わざわざ」描く点に注目されたい。
ジュエルは鏡の前に立ってネクタイを締め、ワトソンは秘書のナディア(ニナ・アリアンダ)にネクタイを締めてもらう。ジュエルのそれは、鏡が重要なモチーフとなっている(制服にアイデンティティを求める自分自身の姿を見て何を思うだろうか)であろうし、ワトソンのそれは、ナディアとの親密な様子が観客に味わい深い印象を残すだろう。
こうして初めてスーツに身をつつんだ二人が対峙するのは、これまたスーツに身を包んだFBI捜査官である。
彼らが全員同じ格好で対峙するのは、このシーンだけである。
あえて物語的な意味を見出すのであれば、ここで初めて、全員が対等な関係として対峙するのである。
これは、権威を内面化してしまった素朴な市民が、権威を疑いはじめる映画だ。それが服装の変化によって語られているのである。見事な「フィクション」である。
映画は、エピローグとして、警官の服装に身を包んだジュエルの姿を最後に見せる。
サム・ロックウェルの最後のセリフは、"Look at you"だ!
☆セクシズム批判について
さて、本作は、アトランタ・ジャーナルの女性記者の描写をめぐって、批判されている(それでもアメリカにおいては、近年のイーストウッド作品の中ではおおむね好評な部類に入るから、ポリコレ一辺倒という逆バリはあたらない)。
このモデルとなった女性記者は、実際にはセックスでネタを取るという行為はしていないにもかかわらず、映画ではそのように描かれているし、また(上述したように)胸元を強調する服装にしようかしら、というセリフや、豊胸しようかしら、というセリフが出てくるが、実際の彼女自身は腰痛に苦しんでおり、むしろ乳房を軽くする手術を受けていたとのことで、こうした「脚色」が、セクシズムであるとして批判されている。
ところで、女性がお色気作戦で任務を遂行していく映画は、歴史的にも多い。パッと思いつくものだと、M:I:IV ゴーストプロトコルで、ポーラ・パットン演じるエージェントが、アラブの富豪(だったか?)をお色気作戦で罠にはめて任務を遂行するシーンがある。
こうした描写についてのフェミニズム的な分析にはあまり明るくないのだが、こうした「ハニートラップ」は、ある種の「被抑圧者による抑圧者への反撃」とも解釈できる。
たとえばアルジェリア戦争において、ムスリムがヴェールを、武器を調達する道具や顔を隠す道具として使用したように、抑圧の原因(セクシャリティ)を武器として転用することで、抑圧者に反撃をくらわすという面がある。川島雄三の『しとやかな獣』がまさにそういう映画である。
なので、田舎の女性記者が、FBIという権力にセクシャリティを使って取り入り、ネタを掴んだ、という描写は、必ずしも何の前置きもなくセクシズムだ、とはならない(ただし、『バイバイ ヴァンプ』とかいうクソは、問答無用の差別)。
結局のところ、「あらすじ」や「題材」にかかわらず、映画全体として演出がどうか、という点が最も大事なのではないだろうか。
「事実と違う脚色をすることで、実際の人間を貶める権利がフィクションにあるか」という話もあるし(オリヴィエ・アサイヤス『冬時間のパリ』でそうしたテーマが語られている)、実際、アトランタ・ジャーナル側の訴訟理由もそこなのだが、映画という一つのフィクションについて真剣に考える際には、この『リチャード・ジュエル』という作品が全くのフィクションであった場合にも、議論に耐えうるような論点を提示することが、映画の未来にとっては大事なのではないか。
そのように考えた場合、「セックスでネタを取る」というステレオタイプな描写を取り上げるだけでは不十分だと思う。それ以降の描写についても考えないといけない。
映画は中盤、ジュエルと母のやり取りが口喧嘩に発展し、沈鬱な雰囲気になってしまったところで、弁護士ワトソンが、「反撃の準備はできてるか」と口火を切ることで、重大な転換を迎える。
このシーンの直後、ジュエルと弁護士ワトソンがアトランタ・ジャーナルのオフィスに乗り込み、ワトソンがかなり辛らつに女性記者を罵る。これはこれでずいぶん一方的な描写なのだが、その後映画は、女性記者が事件の現場から電話ボックスまでの距離がかなりある事に気づき、以前FBI捜査官を誘惑したバーでそのことを問い詰めるものの軽くあしらわれてしまい(「お前なんか相手にしていない」といったセリフがある)、場面変わって、キャシー・ベイツの感動的な記者会見においては、その光景を見ながら、懺悔の涙を流すという展開を、やや性急に物語る。
このとき、映画において、この女性記者が背負わされているものはなにか。
ひとつは「世間」である。
上記したように、「反撃の準備はできてるか」の一声でジュエルとワトソンは形勢逆転に打って出る。脚本として、これほど鮮やかな転換はない。この形勢逆転は、要するに「世間の反応」を180度ひっくり返すというものだ。この「世間」の代表をさせられているのが、この女性記者だ。彼女が現場から電話ボックスまでの道を歩いて真実に気づくシーンの妙な性急さ、あるいは記者会見で「一人だけ」涙を流すというわざとらしい演出も、「世間」の表象を背負わされたものだと考えると、合点がいかないこともない。
そしてそれと対照的に、あくまでジュエル犯人説を貫こうとするFBI捜査官の頑固さもここで際立ってくる。ある意味では、一緒になってジュエルを陥れた二人が、この反転を契機に袂を分かつ、というこの展開が、そのまま世間と権力の関係性として表象されていると解釈することができる。
しかし一方で、「女性だけが懺悔させられる」、「FBI(男性)はお咎めなし」という展開そのものに、セクシズムの匂いを嗅ぎとることもできるだろう。それは、ヒッチコックにおいて常に女性が制裁を受ける立場にあるという指摘に典型的な視点である。
正直、私自身はこの映画を見たときに、その印象を強く持った。そして上記の女性記者だけ一人涙を流すという描写にも鼻白んだ。
どちらの解釈もあり得ると個人的には思うし、よくよく精査すればどちらの解釈も素人の思い付きに過ぎない見当違いのシロモノかもしれない。
いずれにしろ、本作を、「現実と異なる脚色をしたこと」、「セックスでネタを取るキャリアウーマンを描いたこと」によってのみ批判するのは、それ自体は(社会的に)正当なことであっても、映画についての議論としてはやや不十分だと感じる(むろん、映画は映画内部でのみ論じられねばならないという古びたお題目を唱えるつもりはない。映画と現実という二元論を乗り越えることが、ここで企図していることだ)。
特に本作は、上述したように、物語の起承転結を、「制服/私服」というメタファーによって描いている点や、(リアルサウンドの映画評で荻野洋一氏が指摘しているように)「みぞおちを抑える」という言葉無き仕草によって、主人公のおかれた状況を言葉以上に雄弁に物語る演出からわかるように、視覚的なモチーフやメタファーを巧みに使った非常に高度な「フィクション」である(当然だが、ここで「フィクション」は「現実」の対義語ではない。人間は「フィクション-内-存在」である。)。
そうであるからには、そのフィクションの構造や趣向を見定めたうえで、さらに現代社会という時代背景を十分視野に入れて議論を重ねていくことが、大事なのではないだろうか。
※ ちなみに女性記者が電話ボックスと現場の間を歩いてみる、という描写は確かにやや性急なのだが、しかし最近のイーストウッドにおける「電話」のモチーフを考慮すると、妙に印象的なシーンであることも否定はできない。
※ 荻野洋一氏の指摘では、みぞおちを抑える仕草を典型的な心臓疾患の症状としているのだが、逆流性食道炎による胸焼けの可能性も否定はできない。どっちでもよい。ここではおかれた状況を病気というメタファーで描きなおしているという点が重要である。
※ ちなみに、映画『フォード VS フェラーリ』について、アメリカの批評家であるリチャード・ブロディが批判している。
ブロディは、マット・デイモン演じるシェルビーが、実際には私生活で7回にわたって結婚しており、その過程で不倫関係もあったといった事実を、映画がすべて捨象している点を指摘し、「シェルビーの私生活の描写の省略は、何よりも人生の複雑さをあいまいにする巧みなごまかしであり、本作には感情の枠組みに容易に当てはまらない複数の事実を取り上げる意図が皆無であることを示唆している。」と切り捨てている。
これは決して、「事実と異なって」映画が単純であることを批判しているのではないということは、このあとの段落で、ハワード・ホークスの作品をあげて、レーサーの私生活も含めた複雑な描写を称賛し、『フォード vs フェラーリ』がそのレベルに達していないという指摘をしているからもわかる。つまり、映画それ自体の議論として、脚本の弱みを指摘しているのである。
とはいえ、このブロディによる批評は、C・ベイル演じるレーサーの妻が、ベイルにレースをあきらめるよう説得したと解釈するなど、物語の端的な読み間違いが散見される点は指摘しておく。
https://wired.jp/2020/01/19/the-airbrushed-racing-history-of-ford-v-ferrari/
出演:ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、ニナ・アリアンダ
制服の映画である。
冒頭から警備員の服装に身を包んだジュエルの姿が描写され、彼の私服姿は出てこない。
映画の中心となる中央公園での仕事では、背中に「SECURITY」と書かれた白ポロシャツを着ている。これは彼にとっては不本意な仕事なのだが、それでも彼は嬉しそうにこの制服を着て、たくましく仕事をしている。妊婦に水を上げるサービス精神を見せつつ、少しでも怪しい人間を見たら妥協せず追いかける。
彼が制服を脱ぐのは、FBIに訓練用ビデオという嘘の理由で同行させられてからである。逆にそれまでは、家の中でもずっと「SECURITY」のポロシャツを着ているのだ。そしてFBIでの一件があって、サム・ロックウェル演じる弁護士ワトソンが家にやってきてからは、それまでと打って変わって、彼はずっと私服である。
権威を疑い始めること、権威から敵視されること。それが、制服を脱いで私服になるということだ。反骨精神の塊のようなサム・ロックウェルが、いつもカジュアルな恰好をしているというのも、明確なコントラストとして表現されるだろう(ついでに言えば、アトランタ・ジャーナルの記者もまた、冒頭でもっと胸元が開いた服を着ようかしら、などと言っている。このあたりは後述。)。
映画のクライマックスは、キャシー・ベイツの涙の会見のあと、ジュエルとワトソンでFBIのオフィスに行って尋問を受けるシーンである。このシーンの直前に映画は、ジュエルとワトソンが各々の場所で、ネクタイを締める様子を「わざわざ」描く点に注目されたい。
ジュエルは鏡の前に立ってネクタイを締め、ワトソンは秘書のナディア(ニナ・アリアンダ)にネクタイを締めてもらう。ジュエルのそれは、鏡が重要なモチーフとなっている(制服にアイデンティティを求める自分自身の姿を見て何を思うだろうか)であろうし、ワトソンのそれは、ナディアとの親密な様子が観客に味わい深い印象を残すだろう。
こうして初めてスーツに身をつつんだ二人が対峙するのは、これまたスーツに身を包んだFBI捜査官である。
彼らが全員同じ格好で対峙するのは、このシーンだけである。
あえて物語的な意味を見出すのであれば、ここで初めて、全員が対等な関係として対峙するのである。
これは、権威を内面化してしまった素朴な市民が、権威を疑いはじめる映画だ。それが服装の変化によって語られているのである。見事な「フィクション」である。
映画は、エピローグとして、警官の服装に身を包んだジュエルの姿を最後に見せる。
サム・ロックウェルの最後のセリフは、"Look at you"だ!
☆セクシズム批判について
さて、本作は、アトランタ・ジャーナルの女性記者の描写をめぐって、批判されている(それでもアメリカにおいては、近年のイーストウッド作品の中ではおおむね好評な部類に入るから、ポリコレ一辺倒という逆バリはあたらない)。
このモデルとなった女性記者は、実際にはセックスでネタを取るという行為はしていないにもかかわらず、映画ではそのように描かれているし、また(上述したように)胸元を強調する服装にしようかしら、というセリフや、豊胸しようかしら、というセリフが出てくるが、実際の彼女自身は腰痛に苦しんでおり、むしろ乳房を軽くする手術を受けていたとのことで、こうした「脚色」が、セクシズムであるとして批判されている。
ところで、女性がお色気作戦で任務を遂行していく映画は、歴史的にも多い。パッと思いつくものだと、M:I:IV ゴーストプロトコルで、ポーラ・パットン演じるエージェントが、アラブの富豪(だったか?)をお色気作戦で罠にはめて任務を遂行するシーンがある。
こうした描写についてのフェミニズム的な分析にはあまり明るくないのだが、こうした「ハニートラップ」は、ある種の「被抑圧者による抑圧者への反撃」とも解釈できる。
たとえばアルジェリア戦争において、ムスリムがヴェールを、武器を調達する道具や顔を隠す道具として使用したように、抑圧の原因(セクシャリティ)を武器として転用することで、抑圧者に反撃をくらわすという面がある。川島雄三の『しとやかな獣』がまさにそういう映画である。
なので、田舎の女性記者が、FBIという権力にセクシャリティを使って取り入り、ネタを掴んだ、という描写は、必ずしも何の前置きもなくセクシズムだ、とはならない(ただし、『バイバイ ヴァンプ』とかいうクソは、問答無用の差別)。
結局のところ、「あらすじ」や「題材」にかかわらず、映画全体として演出がどうか、という点が最も大事なのではないだろうか。
「事実と違う脚色をすることで、実際の人間を貶める権利がフィクションにあるか」という話もあるし(オリヴィエ・アサイヤス『冬時間のパリ』でそうしたテーマが語られている)、実際、アトランタ・ジャーナル側の訴訟理由もそこなのだが、映画という一つのフィクションについて真剣に考える際には、この『リチャード・ジュエル』という作品が全くのフィクションであった場合にも、議論に耐えうるような論点を提示することが、映画の未来にとっては大事なのではないか。
そのように考えた場合、「セックスでネタを取る」というステレオタイプな描写を取り上げるだけでは不十分だと思う。それ以降の描写についても考えないといけない。
映画は中盤、ジュエルと母のやり取りが口喧嘩に発展し、沈鬱な雰囲気になってしまったところで、弁護士ワトソンが、「反撃の準備はできてるか」と口火を切ることで、重大な転換を迎える。
このシーンの直後、ジュエルと弁護士ワトソンがアトランタ・ジャーナルのオフィスに乗り込み、ワトソンがかなり辛らつに女性記者を罵る。これはこれでずいぶん一方的な描写なのだが、その後映画は、女性記者が事件の現場から電話ボックスまでの距離がかなりある事に気づき、以前FBI捜査官を誘惑したバーでそのことを問い詰めるものの軽くあしらわれてしまい(「お前なんか相手にしていない」といったセリフがある)、場面変わって、キャシー・ベイツの感動的な記者会見においては、その光景を見ながら、懺悔の涙を流すという展開を、やや性急に物語る。
このとき、映画において、この女性記者が背負わされているものはなにか。
ひとつは「世間」である。
上記したように、「反撃の準備はできてるか」の一声でジュエルとワトソンは形勢逆転に打って出る。脚本として、これほど鮮やかな転換はない。この形勢逆転は、要するに「世間の反応」を180度ひっくり返すというものだ。この「世間」の代表をさせられているのが、この女性記者だ。彼女が現場から電話ボックスまでの道を歩いて真実に気づくシーンの妙な性急さ、あるいは記者会見で「一人だけ」涙を流すというわざとらしい演出も、「世間」の表象を背負わされたものだと考えると、合点がいかないこともない。
そしてそれと対照的に、あくまでジュエル犯人説を貫こうとするFBI捜査官の頑固さもここで際立ってくる。ある意味では、一緒になってジュエルを陥れた二人が、この反転を契機に袂を分かつ、というこの展開が、そのまま世間と権力の関係性として表象されていると解釈することができる。
しかし一方で、「女性だけが懺悔させられる」、「FBI(男性)はお咎めなし」という展開そのものに、セクシズムの匂いを嗅ぎとることもできるだろう。それは、ヒッチコックにおいて常に女性が制裁を受ける立場にあるという指摘に典型的な視点である。
正直、私自身はこの映画を見たときに、その印象を強く持った。そして上記の女性記者だけ一人涙を流すという描写にも鼻白んだ。
どちらの解釈もあり得ると個人的には思うし、よくよく精査すればどちらの解釈も素人の思い付きに過ぎない見当違いのシロモノかもしれない。
いずれにしろ、本作を、「現実と異なる脚色をしたこと」、「セックスでネタを取るキャリアウーマンを描いたこと」によってのみ批判するのは、それ自体は(社会的に)正当なことであっても、映画についての議論としてはやや不十分だと感じる(むろん、映画は映画内部でのみ論じられねばならないという古びたお題目を唱えるつもりはない。映画と現実という二元論を乗り越えることが、ここで企図していることだ)。
特に本作は、上述したように、物語の起承転結を、「制服/私服」というメタファーによって描いている点や、(リアルサウンドの映画評で荻野洋一氏が指摘しているように)「みぞおちを抑える」という言葉無き仕草によって、主人公のおかれた状況を言葉以上に雄弁に物語る演出からわかるように、視覚的なモチーフやメタファーを巧みに使った非常に高度な「フィクション」である(当然だが、ここで「フィクション」は「現実」の対義語ではない。人間は「フィクション-内-存在」である。)。
そうであるからには、そのフィクションの構造や趣向を見定めたうえで、さらに現代社会という時代背景を十分視野に入れて議論を重ねていくことが、大事なのではないだろうか。
※ ちなみに女性記者が電話ボックスと現場の間を歩いてみる、という描写は確かにやや性急なのだが、しかし最近のイーストウッドにおける「電話」のモチーフを考慮すると、妙に印象的なシーンであることも否定はできない。
※ 荻野洋一氏の指摘では、みぞおちを抑える仕草を典型的な心臓疾患の症状としているのだが、逆流性食道炎による胸焼けの可能性も否定はできない。どっちでもよい。ここではおかれた状況を病気というメタファーで描きなおしているという点が重要である。
※ ちなみに、映画『フォード VS フェラーリ』について、アメリカの批評家であるリチャード・ブロディが批判している。
ブロディは、マット・デイモン演じるシェルビーが、実際には私生活で7回にわたって結婚しており、その過程で不倫関係もあったといった事実を、映画がすべて捨象している点を指摘し、「シェルビーの私生活の描写の省略は、何よりも人生の複雑さをあいまいにする巧みなごまかしであり、本作には感情の枠組みに容易に当てはまらない複数の事実を取り上げる意図が皆無であることを示唆している。」と切り捨てている。
これは決して、「事実と異なって」映画が単純であることを批判しているのではないということは、このあとの段落で、ハワード・ホークスの作品をあげて、レーサーの私生活も含めた複雑な描写を称賛し、『フォード vs フェラーリ』がそのレベルに達していないという指摘をしているからもわかる。つまり、映画それ自体の議論として、脚本の弱みを指摘しているのである。
とはいえ、このブロディによる批評は、C・ベイル演じるレーサーの妻が、ベイルにレースをあきらめるよう説得したと解釈するなど、物語の端的な読み間違いが散見される点は指摘しておく。
https://wired.jp/2020/01/19/the-airbrushed-racing-history-of-ford-v-ferrari/
2019年12月26日木曜日
コルチャック先生
監督:アンジェイ・ワイダ
ワイダ、90年の作。議員をやっていた時代につくったという。
そして撮影はロビー・ミュラー。
DVDで鑑賞したのだが、デジタルリマスターが素晴らしいのか、ロビー・ミュラーが素晴らしいのかわからないが、とにかく撮影が素晴らしく、引き込まれる。
コルチャック役の主演俳優が、なんというか頭部の輪郭が絶妙で、白黒の陰影の濃い画面に映えるのだ。
シンドラーのリストの直前に作られた映画で、あちらがクラクフで、こちらはワルシャワ・ゲットーが舞台。残虐描写は非常に少なく、むしろ本題は頑なに選別を拒否するコルチャックその人の姿を映すこと、そして孤児院の子供たちを活写すること。特に母を看病しているところをコルチャックに拾われた子供の、躍動的な姿、ゲットーの外の女性に恋をする年長の男の子、歯が抜けかけているとにかく愛らしい少年など。孤児院を舞台に喧嘩が巻き起こるシーンが素晴らしい。あるいは、これはコルチャックのアイデアだったのだろうが、子供たちによる裁判、そして子供たちによる演劇。こうした光景も、非常に落ち着いたショット構成で、過不足なくみせる。派手さはない。実際のところコルチャック先生は当時大変有名で、列車への行進も語り継がれているから、おそらくワルシャワ・ゲットー、あるいはホロコーストに関する逸話でも相当に劇的な部類に入ると思うが、にもかかわらず、あくまで数え切れぬ悲劇と希望の一コマに過ぎないような、非常に慎ましい演出で、撮るべきものを撮っているという印象だ。
ラストシーンへの賛否については、さまざまな資料を参照のこと。時間が経った今見ると、難癖がつく理由がわからないぐらい素直に感動するが。
以下、印象的なシーンを羅列。
湖のほとりのロングショット。
上記の拾われた子供が、母の死を目の当たりにして、思いっきり石を投げて窓を割るショット。
夜間、孤児院のスタッフが話し合う場面。
ザマホフスキーが孤児院出身の金持ちとして登場する場面。
ワイダ、90年の作。議員をやっていた時代につくったという。
そして撮影はロビー・ミュラー。
DVDで鑑賞したのだが、デジタルリマスターが素晴らしいのか、ロビー・ミュラーが素晴らしいのかわからないが、とにかく撮影が素晴らしく、引き込まれる。
コルチャック役の主演俳優が、なんというか頭部の輪郭が絶妙で、白黒の陰影の濃い画面に映えるのだ。
シンドラーのリストの直前に作られた映画で、あちらがクラクフで、こちらはワルシャワ・ゲットーが舞台。残虐描写は非常に少なく、むしろ本題は頑なに選別を拒否するコルチャックその人の姿を映すこと、そして孤児院の子供たちを活写すること。特に母を看病しているところをコルチャックに拾われた子供の、躍動的な姿、ゲットーの外の女性に恋をする年長の男の子、歯が抜けかけているとにかく愛らしい少年など。孤児院を舞台に喧嘩が巻き起こるシーンが素晴らしい。あるいは、これはコルチャックのアイデアだったのだろうが、子供たちによる裁判、そして子供たちによる演劇。こうした光景も、非常に落ち着いたショット構成で、過不足なくみせる。派手さはない。実際のところコルチャック先生は当時大変有名で、列車への行進も語り継がれているから、おそらくワルシャワ・ゲットー、あるいはホロコーストに関する逸話でも相当に劇的な部類に入ると思うが、にもかかわらず、あくまで数え切れぬ悲劇と希望の一コマに過ぎないような、非常に慎ましい演出で、撮るべきものを撮っているという印象だ。
ラストシーンへの賛否については、さまざまな資料を参照のこと。時間が経った今見ると、難癖がつく理由がわからないぐらい素直に感動するが。
以下、印象的なシーンを羅列。
湖のほとりのロングショット。
上記の拾われた子供が、母の死を目の当たりにして、思いっきり石を投げて窓を割るショット。
夜間、孤児院のスタッフが話し合う場面。
ザマホフスキーが孤児院出身の金持ちとして登場する場面。
2019年11月19日火曜日
ポーランド映画祭その3 愚行録
監督:石川慶
2017年の公開以来2回目の鑑賞となった。補足しておくと、石川監督は2002年にポーランドの国立映画学校に入学して、そこで映画を学んだあと、本作で日本映画の監督デビューとなったという関係で、今回の映画祭でも上映された。
初見時は冒頭からのただならぬ雰囲気に魅力を感じたものの、なんとなく判断を保留にしていたこともあり、劇場で再見できるチャンスを逃さない手はないと思って行った。結果、相当見ごたえのある力作との思いを持った。
初見時は、満島ひかりの「狂気」の理由を解き明かすミステリーとして見たのだが、思っていたより満島ひかりのパートは多くなかった。むしろそれぞれのキャラクターの大学時代のエピソードが、かなり均等なバランスで描かれているし、また2回見てみると、それらのエピソードに対する作り手の視点が決して画一的なものではなく、多面的な解釈を許すものであることに気づく。妻夫木聡演じる記者の、語り手に向ける視線だけでなく、それに対する作り手側=カメラの視線が微妙にズレているようにも見える。そのズレがさらに、見ている観客に投射され、我々自身の足場が揺さぶられる。
例えば、臼田あさ美(好演!)の言う内部生と外部生という括りは、果たして「実在」するのだろうか。確かにヒエラルキーらしきものは見え隠れするが、一方で臼田あさ美演じる女子大生自身が、そうしたヒエラルキーを過剰に内面化しているために、見える景色が歪んでいるのではないか、とも思えてくる。オープンテラスのパーティでの、ややわざとらしい仰角のショットは、内部性と外部性の関係を象徴的に見せるが、しかしそれゆえに、その「上下の階級関係」が虚実ないまぜな状態で我々に問いかけているようにも見えるのだ。
ところで、臼田あさ美が松本若菜にビンタを食らわせるシーンは、臼田あさ美と付き合っていた中村倫也が松本若菜に乗り換えたからなのだが、この浮気のシーンを省略しているのが潔いというか、描くべきものがブレていないという印象を受ける。あるいはそうした決定的な場面がないからこそ、松本若菜が魔性の女なのか、臼田あさ美の被害妄想なのか、というあたりに観客の解釈の余地が残されているように思われる。
あと、小出恵介がすごくうまい。というか、彼へのディレクションが素晴らしい。
こういう薄っぺらく浅ましい大学生、今でいうところの「意識高い系の大学生」というのは、いくらでも「パロディ」にできるし、むしろ日本のコンテンツはそれらを無意味に誇張し、パロディ化して良しとする悪習があると思う。例えば、もっともっと歯の浮くような「ポエム(という揶揄は好かないが)」を連発させたり、という選択肢もあり得たのだろう。
しかし賢明にもそうした「戯画化」は最小限にされ、映画は、男女3人の一筋縄では行かぬ力関係を画面に提示してみせるのだ。キャラクターではなく、構造を描く、という意味で、これは骨太な社会派映画だ。
ようやく、日本映画において、パロディに堕さないリアリズムを観れた、という感慨すら覚える。(あのくだらない『シンゴジラ』と比較せよ。あれはすべてが「パロディ」という言い訳でできている。)
カメラの呼吸も地味ながら素晴らしい。病院のラウンジで、妻夫木聡にスーッと寄ったカメラが切り返して、絶句する濱田マリに切り返す間合いなど、絶品である。
思っていた以上に傑作。
2017年の公開以来2回目の鑑賞となった。補足しておくと、石川監督は2002年にポーランドの国立映画学校に入学して、そこで映画を学んだあと、本作で日本映画の監督デビューとなったという関係で、今回の映画祭でも上映された。
初見時は冒頭からのただならぬ雰囲気に魅力を感じたものの、なんとなく判断を保留にしていたこともあり、劇場で再見できるチャンスを逃さない手はないと思って行った。結果、相当見ごたえのある力作との思いを持った。
初見時は、満島ひかりの「狂気」の理由を解き明かすミステリーとして見たのだが、思っていたより満島ひかりのパートは多くなかった。むしろそれぞれのキャラクターの大学時代のエピソードが、かなり均等なバランスで描かれているし、また2回見てみると、それらのエピソードに対する作り手の視点が決して画一的なものではなく、多面的な解釈を許すものであることに気づく。妻夫木聡演じる記者の、語り手に向ける視線だけでなく、それに対する作り手側=カメラの視線が微妙にズレているようにも見える。そのズレがさらに、見ている観客に投射され、我々自身の足場が揺さぶられる。
例えば、臼田あさ美(好演!)の言う内部生と外部生という括りは、果たして「実在」するのだろうか。確かにヒエラルキーらしきものは見え隠れするが、一方で臼田あさ美演じる女子大生自身が、そうしたヒエラルキーを過剰に内面化しているために、見える景色が歪んでいるのではないか、とも思えてくる。オープンテラスのパーティでの、ややわざとらしい仰角のショットは、内部性と外部性の関係を象徴的に見せるが、しかしそれゆえに、その「上下の階級関係」が虚実ないまぜな状態で我々に問いかけているようにも見えるのだ。
ところで、臼田あさ美が松本若菜にビンタを食らわせるシーンは、臼田あさ美と付き合っていた中村倫也が松本若菜に乗り換えたからなのだが、この浮気のシーンを省略しているのが潔いというか、描くべきものがブレていないという印象を受ける。あるいはそうした決定的な場面がないからこそ、松本若菜が魔性の女なのか、臼田あさ美の被害妄想なのか、というあたりに観客の解釈の余地が残されているように思われる。
あと、小出恵介がすごくうまい。というか、彼へのディレクションが素晴らしい。
こういう薄っぺらく浅ましい大学生、今でいうところの「意識高い系の大学生」というのは、いくらでも「パロディ」にできるし、むしろ日本のコンテンツはそれらを無意味に誇張し、パロディ化して良しとする悪習があると思う。例えば、もっともっと歯の浮くような「ポエム(という揶揄は好かないが)」を連発させたり、という選択肢もあり得たのだろう。
しかし賢明にもそうした「戯画化」は最小限にされ、映画は、男女3人の一筋縄では行かぬ力関係を画面に提示してみせるのだ。キャラクターではなく、構造を描く、という意味で、これは骨太な社会派映画だ。
ようやく、日本映画において、パロディに堕さないリアリズムを観れた、という感慨すら覚える。(あのくだらない『シンゴジラ』と比較せよ。あれはすべてが「パロディ」という言い訳でできている。)
カメラの呼吸も地味ながら素晴らしい。病院のラウンジで、妻夫木聡にスーッと寄ったカメラが切り返して、絶句する濱田マリに切り返す間合いなど、絶品である。
思っていた以上に傑作。
2019年11月14日木曜日
ポーランド映画祭 その2 尋問 Przesluchanie
監督:リシャルト・ブガイスキ
主演:クリスティナ・ヤンダ
スターリン時代に舞台女優が偽りの罪状で逮捕されて監獄で拷問、尋問に合うという映画。
監獄映画というのは、振り返ってみると結構傑作ぞろいだ。
ブレッソンの『抵抗』や、ロッセリーニの『ロベレ将軍』、ヘクトール・バベンコは『蜘蛛女のキス』や『カランジル』といった傑作を撮った。
ところで、このブガイスキが82年に撮った『尋問』は、ちょっと凄い。あまり大それたことを言える立場ではないが、数ある監獄映画のなかでも、最強の一本ではないか。冷戦終結後の90年にカンヌで披露されて、クリスティナ・ヤンダが主演女優賞を受賞したようだが、いや全く異論なし。この映画のクリスティナ・ヤンダはちょっと桁違いの破格のパフォーマンス。彼女の一挙手一投足に人類の歴史が、人類の自由が託されているかのような感覚さえしてくる。
K・ヤンダ演じる女優を飲みに誘う男二人組が体制の人間なのだが、この二人によって酔わされ、そのまま監獄に入れられ、そこで酔ったまま裸にされ、着替え、何十人もの女性たちのなかで眠らされる。一夜が明けて酔いが覚めると、突然整列が始まり、理解できないまま狼狽しているとほかの女性達に強制的に並ばされる。このあたりの不条理な展開が徹底した厳しいフレーミングで描写されるのだが、同時にK・ヤンダ演じる女性の逞しさが随所に現れるのが良い。『大理石の男』でもK・ヤンダは落ち着きのないハチャメチャぶりを見せていたが、ここでもそうした路線のパフォーマンスを見せている。中盤以降は監房での女性達とのやり取りと、尋問官とのやり取りが見どころになっていて、これがまた、他に類を見ぬ独創的な表現になっている。どちらのシーンにおいても、時に狂気が支配し、しかしそうかと思えば次の瞬間にはユーモアが流れ、美しい友情の表出があり、同時に乗り越え不可能な不和がある。それらが次々と前触れなく襲ってくる。
特に尋問官たちが茶番劇を仕掛けてK・ヤンダを自供させようとするシーンがあるが、ここで死んだふりをした男がK・ヤンダが倒れてきた勢いで起き上がってしまうという間抜けな展開になっている。死を覚悟したK・ヤンダも思わず大笑いしてしまうのだが、見ている我々観客も笑うに笑えない、しかし笑うしかない、いやこれこそ大笑いだ。この一瞬で感情が大幅に振れる大胆な演出ぶりは、ちょっとほかに例を思いつかない凄さだ。ブゴイスキの確信に満ちた演出と、それを圧倒的パフォーマンスで体現しきるK・ヤンダに最大級の賛辞をおくりたい。
主演:クリスティナ・ヤンダ
スターリン時代に舞台女優が偽りの罪状で逮捕されて監獄で拷問、尋問に合うという映画。
監獄映画というのは、振り返ってみると結構傑作ぞろいだ。
ブレッソンの『抵抗』や、ロッセリーニの『ロベレ将軍』、ヘクトール・バベンコは『蜘蛛女のキス』や『カランジル』といった傑作を撮った。
ところで、このブガイスキが82年に撮った『尋問』は、ちょっと凄い。あまり大それたことを言える立場ではないが、数ある監獄映画のなかでも、最強の一本ではないか。冷戦終結後の90年にカンヌで披露されて、クリスティナ・ヤンダが主演女優賞を受賞したようだが、いや全く異論なし。この映画のクリスティナ・ヤンダはちょっと桁違いの破格のパフォーマンス。彼女の一挙手一投足に人類の歴史が、人類の自由が託されているかのような感覚さえしてくる。
K・ヤンダ演じる女優を飲みに誘う男二人組が体制の人間なのだが、この二人によって酔わされ、そのまま監獄に入れられ、そこで酔ったまま裸にされ、着替え、何十人もの女性たちのなかで眠らされる。一夜が明けて酔いが覚めると、突然整列が始まり、理解できないまま狼狽しているとほかの女性達に強制的に並ばされる。このあたりの不条理な展開が徹底した厳しいフレーミングで描写されるのだが、同時にK・ヤンダ演じる女性の逞しさが随所に現れるのが良い。『大理石の男』でもK・ヤンダは落ち着きのないハチャメチャぶりを見せていたが、ここでもそうした路線のパフォーマンスを見せている。中盤以降は監房での女性達とのやり取りと、尋問官とのやり取りが見どころになっていて、これがまた、他に類を見ぬ独創的な表現になっている。どちらのシーンにおいても、時に狂気が支配し、しかしそうかと思えば次の瞬間にはユーモアが流れ、美しい友情の表出があり、同時に乗り越え不可能な不和がある。それらが次々と前触れなく襲ってくる。
特に尋問官たちが茶番劇を仕掛けてK・ヤンダを自供させようとするシーンがあるが、ここで死んだふりをした男がK・ヤンダが倒れてきた勢いで起き上がってしまうという間抜けな展開になっている。死を覚悟したK・ヤンダも思わず大笑いしてしまうのだが、見ている我々観客も笑うに笑えない、しかし笑うしかない、いやこれこそ大笑いだ。この一瞬で感情が大幅に振れる大胆な演出ぶりは、ちょっとほかに例を思いつかない凄さだ。ブゴイスキの確信に満ちた演出と、それを圧倒的パフォーマンスで体現しきるK・ヤンダに最大級の賛辞をおくりたい。
ポーランド映画祭その1 ソリッド・ゴールド(必見!)
恵比寿で細々とやっているポーランド映画祭に行ってきた。少しでもポーランド成分を感じたうえで挑もうと思い、今年のノーベル文学賞をP・ハントケと一緒に受賞したオルガ・トカルチュクの『逃亡派』を移動時間に読んでいたが、旅をテーマにした無国籍的/多国籍的なエッセイ風小説で、ポーランド感一切なし。まぁそれは良いとして。
『ソリッド・ゴールド』
今年製作された純粋なエンタメ映画。監督はポーランド映画協会の会長らしいヤツェク・ブロムスキ。ポーランド映画というと、ワイダをはじめ、ムンク、カヴァレロヴィッチ、ザヌーシなど、大文字の歴史や社会主義体制をめぐるあれこれを題材にした作品が今のところ有名だし、最近も人気のポーランド映画監督といえば、パヴェリコフスキのような人だ。
なので、こういう娯楽に徹したサスペンス映画はちょっと新鮮。そしてそのレベルの高さに驚愕した。
まず、いきなり『SOLID GOLD』のタイトルがグディニャの夜景を背景にバーンと出て、さっそくヤヌシュ・ガヨスが部下を招集するシーンが始まり、瞬く間にターゲットがいるというカジノへ突入。しかし敵に裏をかかれて、女刑事が連れ去られる。そこで強姦を受けるも、隙をついて敵を撃退。しかし彼女は強姦されたショックの方が大きく、事件を詳細に報告することなく、また捜査のミスの責任を負わされ解雇させられる。ここまで10分ぐらい。恐るべきスピード感だが、撮影は艶っぽく、落ち着いたカメラワークで魅せる。
映画は一気に8年後に飛ぶ。そこで新たにポーランドの港町グディニャを支配する銀行マンが捜査のターゲットとして浮上する。ヤヌシュ・ガヨスが捜査を進めることになり、その仲間として8年前に解雇した例の女性刑事を再び復職させる。
ここで彼女が子供を連れたシングルマザーであることが判明し、観客の9割は父親が誰か理解するだろう。
さて、映画は全部で150分以上ある大作で、事態はなかなか複雑である。件の銀行マンと提携する老いた投資家の暗躍、ワインバーの店長の殺害事件、密輸をめぐるロシア・マフィアとのいざこざなど。さらにすでに老年期に入っているヤヌシュ・ガヨスと妻のほろ苦い会話劇。
これだけてんこ盛りなので、かなり場面の転換が多い。しかし上記のごとく、撮影は快調で、過不足のないショットでバンバン活写していくので、全く飽きない。無駄な回想シーン一切なし。くだらない泣かせ演出もなし。最も称賛すべきは、上記のシングルマザーである女性刑事のドラマパートの潔さだろう。
シングルマザーものといえば決まって、「父親の不在」という問題が出てくるし、ドラマの盛り上げ要因とみなされる。本作でも確かに、娘が一度だけ「なぜ私には父親がいないの?」と母に尋ねるシーンがある。それに対して、お茶を濁す母親、というのもありがちと言えばありがちだ。映画はそのことをわかってか、それ以上この問題を執拗に掘り下げることをしない。「なんでパパがいないの?」と娘が泣きじゃくるシーンなど一切なし。強姦シーンのフラッシュバックも一切なし。そんな使い古された表現よりも、二人が車を降りて学校に行くまでの十数秒のやり取りを見れば、母親がどれほど娘を愛し、また知的に育て上げてきたか、そして娘がそれにいかに応えているかが伝わってくるだろう。この、母親が車のドアを開けると娘のランドセルが見えて、娘がそれに続いて降りてくるところから始まる送迎シーンが、この作品では3,4回出てきたと記憶するが、二人のウィットに富んだ素晴らしい会話劇が始まるたびに、ワクワクが止まらない。なんと素敵な母娘の描写だろうか。感傷に対するユーモアの勝利だ。
映画の最終的な着地も、なんだか常識外れで面白い。刑事と金融マンの対峙によって、物語は緊張感を帯びるのではなくむしろ哀愁を漂わせはじめ、最終的にロシア・マフィアが良いとこ見せて、終わり!社会派サスペンスと見せかけて、この落とし方はずるい。
そしてクライマックスであるロシア・マフィアの逆襲はスローモーションで描かれるのだが、なぜか現場にいたカフェのウェイターが慌てふためく様子がスローモーションで撮られるのが謎。
謎だったのだが、これ、もしかして『時計仕掛けのオレンジ』のオマージュ!!??
150分超えでも全然飽きないのは、役者の魅力もあるだろう。
主人公のマルタ・ニェラディキェヴィッツが素晴らしい。娘への温かい眼差し、敵を追いかける姿のクールさ。彼女自身が8年間で成熟した人間になったことが非常に説得力をもっ
て伝わってくるのは、この聡明な女優の佇まいのおかげだろう。繰り返すが、回想、フラッシュバック、一切なし!
あるいはロシア・マフィアを演じる男の顔、密輸に関与した気の良さそうな太っちょパイロットも印象深い。鑑識がなぜかゲイの設定であるのも、深くは関わってこないが、良い味付けとして効いていると思う。
それにしても、娯楽作の一種として楽しめればいいかな、という感じでのぞんだのだが、まさかこれほどストイックで、ちょっとシドニー・ルメットを思わせるようなサスペンス映画になっているとは思いもよらず。
この監督が凄腕の職人監督なのか、それともポーランドのエンタメがこの水準なのか。社会派きどった某国の娯楽作など恥ずかしくて口に出せないレベル。いやはやおそるべし。
『ソリッド・ゴールド』
今年製作された純粋なエンタメ映画。監督はポーランド映画協会の会長らしいヤツェク・ブロムスキ。ポーランド映画というと、ワイダをはじめ、ムンク、カヴァレロヴィッチ、ザヌーシなど、大文字の歴史や社会主義体制をめぐるあれこれを題材にした作品が今のところ有名だし、最近も人気のポーランド映画監督といえば、パヴェリコフスキのような人だ。
なので、こういう娯楽に徹したサスペンス映画はちょっと新鮮。そしてそのレベルの高さに驚愕した。
まず、いきなり『SOLID GOLD』のタイトルがグディニャの夜景を背景にバーンと出て、さっそくヤヌシュ・ガヨスが部下を招集するシーンが始まり、瞬く間にターゲットがいるというカジノへ突入。しかし敵に裏をかかれて、女刑事が連れ去られる。そこで強姦を受けるも、隙をついて敵を撃退。しかし彼女は強姦されたショックの方が大きく、事件を詳細に報告することなく、また捜査のミスの責任を負わされ解雇させられる。ここまで10分ぐらい。恐るべきスピード感だが、撮影は艶っぽく、落ち着いたカメラワークで魅せる。
映画は一気に8年後に飛ぶ。そこで新たにポーランドの港町グディニャを支配する銀行マンが捜査のターゲットとして浮上する。ヤヌシュ・ガヨスが捜査を進めることになり、その仲間として8年前に解雇した例の女性刑事を再び復職させる。
ここで彼女が子供を連れたシングルマザーであることが判明し、観客の9割は父親が誰か理解するだろう。
さて、映画は全部で150分以上ある大作で、事態はなかなか複雑である。件の銀行マンと提携する老いた投資家の暗躍、ワインバーの店長の殺害事件、密輸をめぐるロシア・マフィアとのいざこざなど。さらにすでに老年期に入っているヤヌシュ・ガヨスと妻のほろ苦い会話劇。
これだけてんこ盛りなので、かなり場面の転換が多い。しかし上記のごとく、撮影は快調で、過不足のないショットでバンバン活写していくので、全く飽きない。無駄な回想シーン一切なし。くだらない泣かせ演出もなし。最も称賛すべきは、上記のシングルマザーである女性刑事のドラマパートの潔さだろう。
シングルマザーものといえば決まって、「父親の不在」という問題が出てくるし、ドラマの盛り上げ要因とみなされる。本作でも確かに、娘が一度だけ「なぜ私には父親がいないの?」と母に尋ねるシーンがある。それに対して、お茶を濁す母親、というのもありがちと言えばありがちだ。映画はそのことをわかってか、それ以上この問題を執拗に掘り下げることをしない。「なんでパパがいないの?」と娘が泣きじゃくるシーンなど一切なし。強姦シーンのフラッシュバックも一切なし。そんな使い古された表現よりも、二人が車を降りて学校に行くまでの十数秒のやり取りを見れば、母親がどれほど娘を愛し、また知的に育て上げてきたか、そして娘がそれにいかに応えているかが伝わってくるだろう。この、母親が車のドアを開けると娘のランドセルが見えて、娘がそれに続いて降りてくるところから始まる送迎シーンが、この作品では3,4回出てきたと記憶するが、二人のウィットに富んだ素晴らしい会話劇が始まるたびに、ワクワクが止まらない。なんと素敵な母娘の描写だろうか。感傷に対するユーモアの勝利だ。
映画の最終的な着地も、なんだか常識外れで面白い。刑事と金融マンの対峙によって、物語は緊張感を帯びるのではなくむしろ哀愁を漂わせはじめ、最終的にロシア・マフィアが良いとこ見せて、終わり!社会派サスペンスと見せかけて、この落とし方はずるい。
そしてクライマックスであるロシア・マフィアの逆襲はスローモーションで描かれるのだが、なぜか現場にいたカフェのウェイターが慌てふためく様子がスローモーションで撮られるのが謎。
謎だったのだが、これ、もしかして『時計仕掛けのオレンジ』のオマージュ!!??
150分超えでも全然飽きないのは、役者の魅力もあるだろう。
主人公のマルタ・ニェラディキェヴィッツが素晴らしい。娘への温かい眼差し、敵を追いかける姿のクールさ。彼女自身が8年間で成熟した人間になったことが非常に説得力をもっ
て伝わってくるのは、この聡明な女優の佇まいのおかげだろう。繰り返すが、回想、フラッシュバック、一切なし!
あるいはロシア・マフィアを演じる男の顔、密輸に関与した気の良さそうな太っちょパイロットも印象深い。鑑識がなぜかゲイの設定であるのも、深くは関わってこないが、良い味付けとして効いていると思う。
それにしても、娯楽作の一種として楽しめればいいかな、という感じでのぞんだのだが、まさかこれほどストイックで、ちょっとシドニー・ルメットを思わせるようなサスペンス映画になっているとは思いもよらず。
この監督が凄腕の職人監督なのか、それともポーランドのエンタメがこの水準なのか。社会派きどった某国の娯楽作など恥ずかしくて口に出せないレベル。いやはやおそるべし。
2019年8月28日水曜日
ワイルド・ライフ
ポール・ダノが、90年のアメリカの小説を原作に、パートナーでもあるゾーイ・カザン(エリア・カザンの孫)とともに脚本を書き、自らが監督した作品。
キャリー・マリガン、ジェイク・ギレンホールが夫婦を演じる、1960年のモンタナを舞台にした作品。
背景に広大な山々が映り、手前に鉄道が走っていくアメリカ的風景が二度出てくるが、こういった光景には無条件で身をゆだねてしまいたくなる。モンタナといえば、最近ではケリー・ライヒャルトの佳作『ライフ・ゴーズ・オン(Certain Women)』でも舞台となっていた。
田舎街を舞台に映画が描くのは、家族の崩壊である。一人息子のジョーは内向的な性格で、父(ギレンホール)のすすめで始めたアメフトでも仲間と打ち解けることができずやめてしまう。父はふとした失態と己のプライドから失業者となり、自堕落な生活をするが、好転しない現実と自分自身への苛立ち故か、山火事の消火活動に行ってしまう。残された母(マリガン)は、夫が失業中の間は何とか自分が稼ごうと奮闘するが、その夫が消火活動に行ってしまったことで、精神的均衡が崩れ、年老いた元軍人との愛人関係に興じ、息子に対してもうまく接することができなくなってしまう。
最近日本で公開されたポーランド映画の傑作『メモリーズ・オブ・サマー』を想起させる物語(ノリノリでダンスする母親と気が乗らない息子を対比する描写など瓜二つだ!)だが、しかしむしろこれはアメリカ映画の得意としてきた家族映画の系譜に連なる作品として見るべきだろう。内向的な少年と家族の崩壊という物語はむしろ『普通の人々』を思わせる。
結論として、とてもいい映画である。ラストも泣かされる。が、全体として少し弱いと思う。
家族映画としては、家族を外側から見つめる視点が足りないと感じる。『普通の人々』であれば、ジャド・ハーシュ演じる精神科医がいた。あるいはルメットの『旅立ちのとき』。ピアノ教師がリバー・フェニックスを見出し、フェニックスは徐々に自分の家庭を外側から相対化する視点を獲得していく。
家族の外部から、家族を見つめなおすための立ち位置が、この映画には欠けている。
おそらくビル・キャンプ演じる老紳士が、その役割を負うべきであったが、キャリー・マリガンに現を抜かすだけのあまり魅力のない老人に過ぎないのが残念である。あるいは写真屋の店主にもそうした立ち位置につくチャンスがあったであろうが、映画は二人の関係性については深く掘り下げようとしない。これはもったいない。
その結果、映画はある種のロマン主義的な、「ここではないどこか」を探して彷徨う人々を映し出して良しとしてしまう。仕事を探して転々とする家族の生活、キャリー・マリガンの「早く目を覚ましたい。でもどこから?どこへ?」というセリフ、ビル・キャンプが青年に話す「天使の舞い」の逸話。目の前の重い現実から逃げたいけど逃げられないというベルイマン的な主題が、あまり新鮮味を持たぬまま反復されてしまうのは、いかがなものか。もちろんラストショットにそれを超えようとする意志を感じることは可能だが。
前述したポーランド映画『メモリーズ・オブ・サマー』に見られたような、「夜中に愛人に会いに行くであろう母親を尾行する過程で、遭遇した鹿に魅入られて尾行など忘れてしまう」というような、物語構造を揺さぶるようなオルタナティブな視点がここにはない。
(その意味で、C・マリガンとB・キャンプの情事を少年が窃視するという展開とその見せ方は、ややありきたりなそれに留まっていると言える。)
急いでフォローしなければならないが、オープニングの庭のシーン(木の存在が素晴らしい)、ギレンホールがトラックに乗って出ていくワンシーンのとてつもないエモーション、放火騒動のあとに息子が寝室へ行き、夫婦がダイニングに残されるのを家の外から撮ったショットの素晴らしさなどなど、撮影監督ディエゴ・ガルシアとのコラボレーションは本当に見事であり、P・ダノは今後もたくさん撮っていってほしいと思う。
久しぶりにキャリー・マリガンの本気を見れたことも大いに満足。
キャリー・マリガン、ジェイク・ギレンホールが夫婦を演じる、1960年のモンタナを舞台にした作品。
背景に広大な山々が映り、手前に鉄道が走っていくアメリカ的風景が二度出てくるが、こういった光景には無条件で身をゆだねてしまいたくなる。モンタナといえば、最近ではケリー・ライヒャルトの佳作『ライフ・ゴーズ・オン(Certain Women)』でも舞台となっていた。
田舎街を舞台に映画が描くのは、家族の崩壊である。一人息子のジョーは内向的な性格で、父(ギレンホール)のすすめで始めたアメフトでも仲間と打ち解けることができずやめてしまう。父はふとした失態と己のプライドから失業者となり、自堕落な生活をするが、好転しない現実と自分自身への苛立ち故か、山火事の消火活動に行ってしまう。残された母(マリガン)は、夫が失業中の間は何とか自分が稼ごうと奮闘するが、その夫が消火活動に行ってしまったことで、精神的均衡が崩れ、年老いた元軍人との愛人関係に興じ、息子に対してもうまく接することができなくなってしまう。
最近日本で公開されたポーランド映画の傑作『メモリーズ・オブ・サマー』を想起させる物語(ノリノリでダンスする母親と気が乗らない息子を対比する描写など瓜二つだ!)だが、しかしむしろこれはアメリカ映画の得意としてきた家族映画の系譜に連なる作品として見るべきだろう。内向的な少年と家族の崩壊という物語はむしろ『普通の人々』を思わせる。
結論として、とてもいい映画である。ラストも泣かされる。が、全体として少し弱いと思う。
家族映画としては、家族を外側から見つめる視点が足りないと感じる。『普通の人々』であれば、ジャド・ハーシュ演じる精神科医がいた。あるいはルメットの『旅立ちのとき』。ピアノ教師がリバー・フェニックスを見出し、フェニックスは徐々に自分の家庭を外側から相対化する視点を獲得していく。
家族の外部から、家族を見つめなおすための立ち位置が、この映画には欠けている。
おそらくビル・キャンプ演じる老紳士が、その役割を負うべきであったが、キャリー・マリガンに現を抜かすだけのあまり魅力のない老人に過ぎないのが残念である。あるいは写真屋の店主にもそうした立ち位置につくチャンスがあったであろうが、映画は二人の関係性については深く掘り下げようとしない。これはもったいない。
その結果、映画はある種のロマン主義的な、「ここではないどこか」を探して彷徨う人々を映し出して良しとしてしまう。仕事を探して転々とする家族の生活、キャリー・マリガンの「早く目を覚ましたい。でもどこから?どこへ?」というセリフ、ビル・キャンプが青年に話す「天使の舞い」の逸話。目の前の重い現実から逃げたいけど逃げられないというベルイマン的な主題が、あまり新鮮味を持たぬまま反復されてしまうのは、いかがなものか。もちろんラストショットにそれを超えようとする意志を感じることは可能だが。
前述したポーランド映画『メモリーズ・オブ・サマー』に見られたような、「夜中に愛人に会いに行くであろう母親を尾行する過程で、遭遇した鹿に魅入られて尾行など忘れてしまう」というような、物語構造を揺さぶるようなオルタナティブな視点がここにはない。
(その意味で、C・マリガンとB・キャンプの情事を少年が窃視するという展開とその見せ方は、ややありきたりなそれに留まっていると言える。)
急いでフォローしなければならないが、オープニングの庭のシーン(木の存在が素晴らしい)、ギレンホールがトラックに乗って出ていくワンシーンのとてつもないエモーション、放火騒動のあとに息子が寝室へ行き、夫婦がダイニングに残されるのを家の外から撮ったショットの素晴らしさなどなど、撮影監督ディエゴ・ガルシアとのコラボレーションは本当に見事であり、P・ダノは今後もたくさん撮っていってほしいと思う。
久しぶりにキャリー・マリガンの本気を見れたことも大いに満足。
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