2019年11月14日木曜日

ポーランド映画祭その1 ソリッド・ゴールド(必見!)

恵比寿で細々とやっているポーランド映画祭に行ってきた。少しでもポーランド成分を感じたうえで挑もうと思い、今年のノーベル文学賞をP・ハントケと一緒に受賞したオルガ・トカルチュクの『逃亡派』を移動時間に読んでいたが、旅をテーマにした無国籍的/多国籍的なエッセイ風小説で、ポーランド感一切なし。まぁそれは良いとして。

『ソリッド・ゴールド』
今年製作された純粋なエンタメ映画。監督はポーランド映画協会の会長らしいヤツェク・ブロムスキ。ポーランド映画というと、ワイダをはじめ、ムンク、カヴァレロヴィッチ、ザヌーシなど、大文字の歴史や社会主義体制をめぐるあれこれを題材にした作品が今のところ有名だし、最近も人気のポーランド映画監督といえば、パヴェリコフスキのような人だ。
なので、こういう娯楽に徹したサスペンス映画はちょっと新鮮。そしてそのレベルの高さに驚愕した。
まず、いきなり『SOLID GOLD』のタイトルがグディニャの夜景を背景にバーンと出て、さっそくヤヌシュ・ガヨスが部下を招集するシーンが始まり、瞬く間にターゲットがいるというカジノへ突入。しかし敵に裏をかかれて、女刑事が連れ去られる。そこで強姦を受けるも、隙をついて敵を撃退。しかし彼女は強姦されたショックの方が大きく、事件を詳細に報告することなく、また捜査のミスの責任を負わされ解雇させられる。ここまで10分ぐらい。恐るべきスピード感だが、撮影は艶っぽく、落ち着いたカメラワークで魅せる。
映画は一気に8年後に飛ぶ。そこで新たにポーランドの港町グディニャを支配する銀行マンが捜査のターゲットとして浮上する。ヤヌシュ・ガヨスが捜査を進めることになり、その仲間として8年前に解雇した例の女性刑事を再び復職させる。
ここで彼女が子供を連れたシングルマザーであることが判明し、観客の9割は父親が誰か理解するだろう。
さて、映画は全部で150分以上ある大作で、事態はなかなか複雑である。件の銀行マンと提携する老いた投資家の暗躍、ワインバーの店長の殺害事件、密輸をめぐるロシア・マフィアとのいざこざなど。さらにすでに老年期に入っているヤヌシュ・ガヨスと妻のほろ苦い会話劇。
これだけてんこ盛りなので、かなり場面の転換が多い。しかし上記のごとく、撮影は快調で、過不足のないショットでバンバン活写していくので、全く飽きない。無駄な回想シーン一切なし。くだらない泣かせ演出もなし。最も称賛すべきは、上記のシングルマザーである女性刑事のドラマパートの潔さだろう。
シングルマザーものといえば決まって、「父親の不在」という問題が出てくるし、ドラマの盛り上げ要因とみなされる。本作でも確かに、娘が一度だけ「なぜ私には父親がいないの?」と母に尋ねるシーンがある。それに対して、お茶を濁す母親、というのもありがちと言えばありがちだ。映画はそのことをわかってか、それ以上この問題を執拗に掘り下げることをしない。「なんでパパがいないの?」と娘が泣きじゃくるシーンなど一切なし。強姦シーンのフラッシュバックも一切なし。そんな使い古された表現よりも、二人が車を降りて学校に行くまでの十数秒のやり取りを見れば、母親がどれほど娘を愛し、また知的に育て上げてきたか、そして娘がそれにいかに応えているかが伝わってくるだろう。この、母親が車のドアを開けると娘のランドセルが見えて、娘がそれに続いて降りてくるところから始まる送迎シーンが、この作品では3,4回出てきたと記憶するが、二人のウィットに富んだ素晴らしい会話劇が始まるたびに、ワクワクが止まらない。なんと素敵な母娘の描写だろうか。感傷に対するユーモアの勝利だ。


映画の最終的な着地も、なんだか常識外れで面白い。刑事と金融マンの対峙によって、物語は緊張感を帯びるのではなくむしろ哀愁を漂わせはじめ、最終的にロシア・マフィアが良いとこ見せて、終わり!社会派サスペンスと見せかけて、この落とし方はずるい。
そしてクライマックスであるロシア・マフィアの逆襲はスローモーションで描かれるのだが、なぜか現場にいたカフェのウェイターが慌てふためく様子がスローモーションで撮られるのが謎。
謎だったのだが、これ、もしかして『時計仕掛けのオレンジ』のオマージュ!!??


150分超えでも全然飽きないのは、役者の魅力もあるだろう。
主人公のマルタ・ニェラディキェヴィッツが素晴らしい。娘への温かい眼差し、敵を追いかける姿のクールさ。彼女自身が8年間で成熟した人間になったことが非常に説得力をもっ
て伝わってくるのは、この聡明な女優の佇まいのおかげだろう。繰り返すが、回想、フラッシュバック、一切なし!
あるいはロシア・マフィアを演じる男の顔、密輸に関与した気の良さそうな太っちょパイロットも印象深い。鑑識がなぜかゲイの設定であるのも、深くは関わってこないが、良い味付けとして効いていると思う。

それにしても、娯楽作の一種として楽しめればいいかな、という感じでのぞんだのだが、まさかこれほどストイックで、ちょっとシドニー・ルメットを思わせるようなサスペンス映画になっているとは思いもよらず。
この監督が凄腕の職人監督なのか、それともポーランドのエンタメがこの水準なのか。社会派きどった某国の娯楽作など恥ずかしくて口に出せないレベル。いやはやおそるべし。




















2019年8月28日水曜日

ワイルド・ライフ

ポール・ダノが、90年のアメリカの小説を原作に、パートナーでもあるゾーイ・カザン(エリア・カザンの孫)とともに脚本を書き、自らが監督した作品。
キャリー・マリガン、ジェイク・ギレンホールが夫婦を演じる、1960年のモンタナを舞台にした作品。
背景に広大な山々が映り、手前に鉄道が走っていくアメリカ的風景が二度出てくるが、こういった光景には無条件で身をゆだねてしまいたくなる。モンタナといえば、最近ではケリー・ライヒャルトの佳作『ライフ・ゴーズ・オン(Certain Women)』でも舞台となっていた。

田舎街を舞台に映画が描くのは、家族の崩壊である。一人息子のジョーは内向的な性格で、父(ギレンホール)のすすめで始めたアメフトでも仲間と打ち解けることができずやめてしまう。父はふとした失態と己のプライドから失業者となり、自堕落な生活をするが、好転しない現実と自分自身への苛立ち故か、山火事の消火活動に行ってしまう。残された母(マリガン)は、夫が失業中の間は何とか自分が稼ごうと奮闘するが、その夫が消火活動に行ってしまったことで、精神的均衡が崩れ、年老いた元軍人との愛人関係に興じ、息子に対してもうまく接することができなくなってしまう。
最近日本で公開されたポーランド映画の傑作『メモリーズ・オブ・サマー』を想起させる物語(ノリノリでダンスする母親と気が乗らない息子を対比する描写など瓜二つだ!)だが、しかしむしろこれはアメリカ映画の得意としてきた家族映画の系譜に連なる作品として見るべきだろう。内向的な少年と家族の崩壊という物語はむしろ『普通の人々』を思わせる。


結論として、とてもいい映画である。ラストも泣かされる。が、全体として少し弱いと思う。

家族映画としては、家族を外側から見つめる視点が足りないと感じる。『普通の人々』であれば、ジャド・ハーシュ演じる精神科医がいた。あるいはルメットの『旅立ちのとき』。ピアノ教師がリバー・フェニックスを見出し、フェニックスは徐々に自分の家庭を外側から相対化する視点を獲得していく。
家族の外部から、家族を見つめなおすための立ち位置が、この映画には欠けている。
おそらくビル・キャンプ演じる老紳士が、その役割を負うべきであったが、キャリー・マリガンに現を抜かすだけのあまり魅力のない老人に過ぎないのが残念である。あるいは写真屋の店主にもそうした立ち位置につくチャンスがあったであろうが、映画は二人の関係性については深く掘り下げようとしない。これはもったいない。

その結果、映画はある種のロマン主義的な、「ここではないどこか」を探して彷徨う人々を映し出して良しとしてしまう。仕事を探して転々とする家族の生活、キャリー・マリガンの「早く目を覚ましたい。でもどこから?どこへ?」というセリフ、ビル・キャンプが青年に話す「天使の舞い」の逸話。目の前の重い現実から逃げたいけど逃げられないというベルイマン的な主題が、あまり新鮮味を持たぬまま反復されてしまうのは、いかがなものか。もちろんラストショットにそれを超えようとする意志を感じることは可能だが。

前述したポーランド映画『メモリーズ・オブ・サマー』に見られたような、「夜中に愛人に会いに行くであろう母親を尾行する過程で、遭遇した鹿に魅入られて尾行など忘れてしまう」というような、物語構造を揺さぶるようなオルタナティブな視点がここにはない。
(その意味で、C・マリガンとB・キャンプの情事を少年が窃視するという展開とその見せ方は、ややありきたりなそれに留まっていると言える。)


急いでフォローしなければならないが、オープニングの庭のシーン(木の存在が素晴らしい)、ギレンホールがトラックに乗って出ていくワンシーンのとてつもないエモーション、放火騒動のあとに息子が寝室へ行き、夫婦がダイニングに残されるのを家の外から撮ったショットの素晴らしさなどなど、撮影監督ディエゴ・ガルシアとのコラボレーションは本当に見事であり、P・ダノは今後もたくさん撮っていってほしいと思う。
久しぶりにキャリー・マリガンの本気を見れたことも大いに満足。


2019年7月16日火曜日

緊急検証!! 石垣のりこ参議院候補の「消費税廃止」政策はトンデモか!?


7月21日に参議院選挙がある。すでに期日前投票を済ませた方もいるだろう。立憲民主党から立候補している石垣のりこ氏は、出馬直前までFM仙台のラジオパーソナリティをしていたこともあり、宮城県内では知名度が高い。また、仙台市は郡和子氏が市長に当選するなど、全国的にみれば、比較的旧民主党系が支持されやすい地盤もある。
一方で、石垣のりこ氏は出馬当初から「消費税廃止」を訴えており、あくまで「増税凍結」を主張し、消費税の廃止までは言っていない立憲民主党本部との乖離が、インターネットを中心に話題になっている。立憲民主党は、旧民主党の流れを汲む政党でもあり、「消費増税止む無し」と考えている支持者が比較的多いこともあり、「立憲民主党は支持するが石垣氏は支持できない」という有権者の声も聞かれる。
実際、ここまでの選挙戦においても、対する現職の自民党・愛知治郎サイドは、「借金大国の日本で、これから高齢化も進んで社会保障費も増大するのに、消費税廃止など暴論だ」といった、「人々の通念」に訴えかけることで、批判する戦略をとっている。

では実際のところ、「消費税廃止」は可能なのかどうか、以下に詳しく検討していく。これから投票する予定の有権者には、ぜひこの文章を読んでから投票に行っていただくことを、強く望む。

さて、ある政策、公約の実現可能性を検討するとき、我々は数字やデータを使って検討することが正しいと思っている。「数字のない議論は無意味である」と大学の教授が言えば、学生達も「その通り」と、うなずく光景が容易に思い浮かぶ。理系学部であればなおさらであり、最近では「文系の議論には数字もデータも一切出てこないから意味がない」という意見さえ、珍しくない。
しかし、これまた当然のことであるが、数字を使った議論には、その前提となる枠組みが必ず存在している。例えばある銀行がA社とB社のどちらに投資すべきかを検討するときには、「リスクが小さく、リターンが大きい方が、より良い投資先」という価値判断があり、その前提のうえでリスクとリターンの期待値を計算するのである。この前提があくまでひとつの価値判断であるということを忘れてはならない。つまり、「リスクが小さく、リターンが大きい方が、より良い投資先」とはまったく違う価値判断もあり(たとえば、より従業者のことを大切に考えている方が良い企業、とか)、価値判断が変われば、計算すべき対象も変わるのである。なので、「数字の出てこない議論には意味がない」という意見には一理あるが、同時に、「数字を用いる前提が吟味されない議論は薄っぺらい」という意見にも一理あると言わなければならない。
なぜこんなことを述べているか、勘の良いあなたならわかるだろう。そう、私はここで数字の議論はせず、その前提の話をするのである。

ここで私が議論/批判の対象とするのは、以下の通念である。
・「税金によって私たちの社会保障費が賄われている。」
・「税金では支出が賄えない場合には、国債を売ってお金を集めてくる必要がある。」
・「国債は国民に対する借金であり、いずれ返さないといけない。少しずつ返済しなければ、将来世代にツケを残すことになる」
・「いずれにしろ、このまま増税せずに社会保障費が高騰すれば、借金はさらに膨れ上がり、日本はギリシャのように財政破綻してしまうか、ジンバブエのようにハイパーインフレを起こしてしまう」

さて、以上の通念は、マスメディアにおいても広く流布している「常識」である。
かつてアメリカで活躍したジョン・K・ガルブレイスは、こうした「常識」を「通念”conventional wisdom”」と呼んだのだが、まさにこうした通念がいま問い直されなくてはならない。
おわかりと思うが、上にあげた通念は、なんと、(びっくりする準備はいいだろうか・・・)、なんと、なんと、、、、

全部間違っているのだから。

代わりに、以下に事実を述べる。(そんなわけないだろ~~!!!と突っ込む準備はできているだろうか・・・)

1. 税金は、政府が支出するために集めるのではなく、市中に出回っているマネーを破壊するためにある。
2. 国債は、政府が支出するために国民からお金を借りているのではなく、政府が支出をすることで発行される。
3. そもそも財政赤字とは、政府の「負債」ではあるが、「借金」ではない。したがって、「返す」とか「返さない」といった言葉を当てはめるのはナンセンスである。
4. 日本政府が財政破綻することはあり得ない。ギリシャが財政破綻したのは、ユーロという特殊な環境の問題である。同様に、カナダやオーストラリアやアメリカいったユーロ圏外の国が財政破綻することもあり得ない。
5. 財政赤字は「将来世代へのツケ」ではない。むしろ財政黒字の方が危険な場合すらある。
6. ただし、これが大事なのだが、だから政府は無限にお金を支出すればいい、というわけではない。
結論として、

7. 消費税廃止は、可能である。
★通貨発行権を独占している日本政府は、お金を「集めてくる」必要がない・・・。

とりあえず、お金はどこから来るのかということをお話しよう。日本で出回っている通貨は、円である。この「円」を発行できるのは、日本政府(中央銀行を含む)のみである。これを通貨発行権と呼ぶ。日本政府は円の通貨発行権を独占している。どういうことかと言えば、日本政府は、何もないところから、円を発行することがいつでも可能、ということである。
どうやるかって?簡単である。例えばあなたの七十七銀行の預金口座に、日本政府が「100,0000円」と打ち込めば、いきなりあなたは億万長者になれる。キーボード一つで、お金を生み出す、これが、政府が独占している権利=通貨発行権である。凄すぎる。まさに、権力である。だが、逆に言うと、日本政府が円を発行してくれないと、我々のもとにお金は回ってこないのである。実はあなたの財布の中にある1万円も、私の貯金も(額は教えないぞ)、すべては政府の通貨発行権により発行されたお金である。
市中にお金が出回るためには、政府がお金を発行するしかない1)。
これが、あまりにもシンプルだが、ゆるぎない真実である。
以下の反論があり得る。銀行が会社に融資するときなどに、信用創造がなされているではないか。お金を発行できるのは政府だけではない、と。
もちろん、信用創造によって日々マネーが生まれている。が、信用創造においては、必ず負債と資産が両方とも発生している。七十七銀行が大塚家具に1億円貸すときには、1億円の負債が大塚家具に計上され、1億円の資産が七十七銀行に計上される。全体としてはゼロ、である。(この「全体」のことを、金融資産という。だから上のことを正確に言うと、「金融資産を増やすことができるのは、政府だけである」ということになる)
もっとテクニカルな話をすると、政府が銀行の準備預金に振り込んでくれる(=マネーを発行してくれる)から、銀行は信用創造ができる。


★お金を発行したら、それは政府の「負債」として計上される!!
あなたの財布の中に1万円はあるだろうか。あるのか。金持ちめ。。。
この1万円札を発行したのはどこか。そう、日本銀行である。ところで、この1万円札は、正真正銘のあなたのもつ資産であるが、一方で、その1万円札は、日本銀行の負債として計上されている。あなたの資産は、日銀の負債である。要するに1万円の赤字である。

「負債ということは、借金ということか??」

そろそろ、この話をしないといけない。私たちはごく当たり前のように、負債=借金と考えているし、赤字=借金と考えている。しかし、日銀や政府の負債は、果たして本当に「借金」なのだろうか。実は、負債=借金という等式は、自明のようにみえて、ある前提のもとに成り立っている。それは、「政府の財政は、家計と同じように扱うことができる」という前提である。家計の類推、英語で言うと”household analogy”である。なぜ英語で言うのかといえば、そうするとなんとなく事情通っぽく見えて説得力が増すからである。浅ましい考えである。
さて、家計にとっては、負債も借金も同じで、単なる言葉の言い換えである。企業も同じである。誰かに対して負債を抱えているなら、それはつまり借金をしているということであり、それはいつか返さないといけないのである。
ところが、政府や日銀については、事情が異なる。というのも、政府や日銀は通貨を発行する権利を有しているからである。家計や企業はその権利を有していない。これをcurrency issuerとcurrency userの違い、と言う。
通貨を発行できる主体にとって、負債は借金ではない。政府は、あるいは日銀は、負債として、通貨を自ら発行しているのである。ではここでいう「負債」とは一体何なのか。
「1万円札」を例にとってみよう。1万円札はあなたの資産であり、政府/日銀の負債である。ここで1万円の負債とは、あなたが1万円を政府に持っていったら、それを「受けとらなければいけない」という意味である。本当にこれだけであるが、これが大事なのである。1万円として受け取らないといけない、ということはすなわち、「この紙切れには1万円の価値があります」と認めるということだからである。これが、政府/日銀にとっての、「負債」の意味である。
現在の日本の財政赤字は、巨額である。これらの負債はすべて、「政府が自ら発行した負債」である、断じて「国民に借金している額」ではないのである。

長々と書いてしまったが、言いたいことはシンプルである。
・政府/日銀は、通貨を発行する権利を独占している。そしてその発行したマネーは、これらの「負債」として発行される。

ここまではウォーミングアップである。まずは、「負債」とか「赤字」という言葉を聞いて、すぐに「借金」と同じ意味だと早合点してしまうことから卒業することである。そうすれば、以下の理解は早いと思う。


★税金は政府の財源ではない。税金の役割はもっと別にある!!
こっから、本題である。なにせ、もともとの命題は消費税廃止の可否である。
さて、今までの説明でわかることだが、お金というのは政府が発行するものであり、それ以外ではあり得ない。となると、政府がいろんなことにお金を使うとき(例えば道路を整備するために、あるいは公務員に給料を払うために)、そのとき、単純に、政府がお金を発行しているのである。シンプルすぎて狐につままれたような感じがするが、申し訳ないがそれ以外の説明のしようがない。単に、政府は、公務員の預金口座に、建設会社の預金口座に、お金を振り込むのである。

ええええ!!!!税金はどうしたんだよ!!!公務員ってのは俺らの税金もらって働いてるんじゃないのかよおおお!!!
と悲鳴が聞こえてきたが、ちょっと落ち着いて聞いてくれ。

いや、本当に申し訳ない。我々が払っている税金が、政府の支出に使われている、ということは基本的にない。テクニカルな話をすると、我々が銀行を通じて払う税金、これはどういう風に決済されるかというと、単に、我々の預金口座の額が減り、その銀行がもってる準備預金が同額だけ、減る。減る、というか、消滅するのである。そう、税金とは、マネーを破壊する行為なのである。言ってみれば、「ちょっとそこのお前、お金減らしなさい」と命令されて、ドブに捨てているようなものである。重ねて申し訳ないが、本当にそれが事実なのである。
じゃあ一体、何のために我々は、税金を払っているのだろうか!!
税金にはいくつかの役割がある。
まず、〇〇税という具体的なものは置いておいて、「納税の義務」の役割から話そう。
結論を言うと、みんなが「円」を使ってくれるようにするため、である2)。
どういうことか。政府は「円」という単位のお金を独占的に発行できる。が、よく考えてみれば、我々も実はお金を発行できるのである。そう、たとえば、ビットコインがそうだ。ビットコインは民間の私企業が発行しているお金だ。同じように、ビットコインじゃなくても、例えば私とあなたの間だけで通用するお金を突然生み出すこともできる。例えば、「ぽんぽん」という通貨を発行してみよう。私のオックスフォードシャツ1枚5000ぽんぽん、とか。しかし、大変重大なことに、ぽんぽんでは、税金が払えないのである。例えばあなたが1万円の家電製品を買ったら、800円の消費税をとられるが、あなたが「消費税の分は、200ぽんぽんで払います」と店頭で言ったら、店員は呆然とするか、さもなくば警察を呼んでしまうだろう。つまり、お金は誰でも発行できるのだが、税金は「円」でしか払えないのである。そしてだからこそ、私たちは「円」を使って買い物をしたり貯金をしたりしているのである。「円」以外で税金が払えてしまうのであれば、他の通貨に切り替えてしまうかもしれない。そうすると、政府としては、通貨発行権の独占を失い、いろんな政策がやりにくくなってしまう。

税金の役割はまだある。
ひとつは、世の中のお金の分配を調整するため、である。
例えば所得税。これは、金持ちの方がより多く払う累進課税になっている。こうすることで、経済的格差を縮小させることができる。
よく、「税金は金持ちがいっぱい払ってるんだ。俺らのおかげで、お前らの社会保障が賄われているんだ」とのたまうお金持ちさんがいるが、実は、そんなことはないのである。お金持ちからいっぱいお金をとっているのは、単に、お金を没収するためであり、どこかに回すためではない。さっきのたとえ話がそのまま当てはまるのだが、「お前、お金持ちすぎ。ダメ。」というのが、税金の役割なのである。
それから、もう一つ大事な機能がある。たばこ税とかガソリン税というのがあるだろう。これは、いわば、タバコを吸う人にペナルティを課したり、汚染度の高いガソリンにペナルティを課すことで、そうしたものを抑制するためにある。いわば社会政策の一貫として、税金を課すこともできるのである。

まとめよう。
・税金は、政府の支出をまかなうためにあるのではない。
・納税義務は、まずもって、国民に円を使ってもらうためにある。
・そして、様々な場面で税金を課すことで、格差を縮小させたり、望ましくない行動を抑制する役割を持っている。

おお、理解が進んだ!


★国債の話は結構複雑なんですよね・・・・。
税金が政府支出の財源じゃないなら、国債は何のためにあるんだ、という声が聞こえてきた。
自信をもって言うが、国債もまた、根本的には、政府の財源ではない。
で、この国債の役割、あるいは国債なんてそもそも要らないんじゃないか、という話は、かなり複雑で、かえって混乱を招くので、最後に述べることにした。興味のある人は読んでみてほしい。
とりあえずここで言うべきは以下。
・現在は確かに、形式上は、政府が国債を発行して、それを市中銀行(とかディーラー)が買い、それが政府の日銀口座に振り込まれる、ということになっている。
・が、政府が国債を発行する際には、日銀がその国債購入費用を「あらかじめ」市中銀行に貸し出すことで、国債の売れ残りがないように調整している。こういうのを「コリドーシステム」と呼んでいる。
すごく簡単に言うと、国債の売買は出来レースで、政府は「国債を買ってもらえなかったらどうしよう・・・」などとビクビクしていることは一切ないのである。

ちなみに国債は、銀行や企業にとっては、安全資産として保持するなど、経営戦略の一貫として関わってくるものである。
昔から、「このまま財政赤字が膨らめば、日本は財政破綻する!!」と予言しては、なかったことにしている経済学者やエコノミストがたくさんいるが、彼らの言い分のひとつが、国債の金利が急上昇すれば利払いが大変なことになって、破綻するかハイパーインフレになってしまう、というものである。
その後も政府の財政赤字はどんどん増えていった。ところがなんと、最近の長期国債金利は、マイナス金利になってしまっている。マイナス金利ということは、国債を買った側が、定期的に金利をもらうのではなくて、払っている状態なのである。それでも買い手がたくさんいる。つまり今でも、国債は安全資産として企業に重宝されている。それが、急に金利が上昇するわけないと思うのだが、どうか。お金を払ってでも欲しいものですよ?


★いよいよ本題に入りましょう!

さて、準備は整いました。こっからが本題です。
今までの議論に納得してくれたあなたは、日本の経済の何が問題なのか、ガラッと景色が変わるはずです。
まず、財政赤字は問題ではない、ということ。財政赤字とは、単に、それだけ政府が負債を発行したよ、という記録であって、将来返さなきゃいけない借金などでは一切ない。
じゃあ日本には何の問題もないのか、というと、そうではない。
ここが最も言いたいことである。
少子高齢化、今後の原発の廃炉作業、地方経済の衰退、非正規雇用などのブラック企業の問題などなど、たくさんの問題がある。しかし唯一、財政赤字は問題ではないし、そして財政赤字が問題ないからといって、他の問題がなくなるわけではない、ということである。
私が何を言いたいかわかってくれるだろうか。
我々は、何かというとお金の問題に議論を帰着させるクセがついてしまっているのである。
例えば、少子高齢化だ! → 社会保障費が高騰してしまう!
例えば、原発の廃炉作業をしないと! → いくらかかるんだ!財政が持たないぞ!
といった具合に。少子高齢化の真の問題は、高齢者を介護する人材が足りなくなること、高齢者医療に医者の人手をとられて他の分野の研究が停滞すること、などである。
あるいは原発の廃炉作業の問題もまた、廃炉のエキスパートがどれぐらいいるのか、そして何十年とかかる廃炉作業を続けるために今から若い人材を育成する環境が必要なこと、そもそも若い世代にそういう分野に進んでもらうように動機づけること、そしてそもそも廃炉作業が技術的に可能なのか、ということである。
ところが、何かというと、すぐに「費用」の話をしてしまうがために、こうした具体的で本質的な問題への関心が薄れてしまい、議論が広がらないのである。だからこそ、「財政赤字は問題ない」ということを理解しないといけないし、同時に「財政赤字は問題ないから、もっと別の問題を真剣に話し合おう」と言わなければならないのである。
間違っても、「財政赤字は問題ないから、日本はこの先も安泰です」などと言ってはいけない。問題は山積みだし、それはお金だけで解決できるものではない。

しかし!!しかし、しかし、しかーーし!!

政府が通貨発行権を存分に駆使して、解決できるものもある。少なくともそれが必要な問題はいっぱいある。
例えば上にあげた、廃炉作業の環境づくり。具体的にどうすべきかは私にはわからないが、政府がその分野への投資を惜しむべきではない。
また、ひっ迫する環境問題に対して、もっとエコ・テクノロジーへの公共投資をしたっていいだろう。
お金を使うべきところはたくさんあるし、お金を必要としている分野もたくさんある。


★消費税廃止は、実現可能だし、望ましい格差縮小政策である!
さて、日本の問題点として、経済格差が拡大傾向にある点をあげなければならない。
例えば、子供の貧困率が過去最大のレベルに達しており、ブルジョワ家庭で英才教育を受けているお坊ちゃまもいれば、母親一人が一生懸命働いて養っているが、給料は少なく、子ども食堂のお世話にならざるを得ない家庭もある。宮城県は子供の貧困率が全国的にも高いそうだ。あるいは、日本は世界的には格差が少ないと言われているが、相対的貧困率(所得の中央値の半分以下の所得の人達の割合)は、実はOECD諸国においては4位であり、立派な格差大国である。海外からの技能実習生も安月給でぼろ雑巾のように働かされており、彼ら/彼女らも、今後日本に住む貧困層として問題化するだろう。
金のあるところにはたくさん金があり、一方で金がない世帯が増えてきている。
日本銀行などが公表している、資金循環統計、というのがある。簡単に言えば、どこにお金が集まっているのか、というのを見るためのデータである。それを見ると、企業の黒字がここ20年間でどんどん上がっていることがわかる。金は企業に入っているのである。しかし残念ながら、それが従業員の給料には回ってこないのである。これには歴史的な経緯があり、なかなか一口では言えないのだが、例えば労働組合が弱体化して、企業への賃上げ圧力が弱まったことなどが影響しているし、小泉政権時代の派遣労働法の規制緩和なども大きく影響しているだろう。企業には企業の経営方針があり、様々な構造的要因が解決されなければ、単に国が「賃上げせい!」と言っても、そううまくはいかないのである。
なので、賃上げは結構難しい。最終目標としては、労働者の賃金が上がっていくサイクルに再び戻っていくことが、日本経済の目指すべき方向だと考えるが、じゃあすぐに賃上げが起きるかというと、少し時間がかかるだろう。
ならば、発想をかえて、可処分所得を増やしてあげればいい。
そう、消費税廃止である。生活保護の人も、ひとり親世帯も、みんな消費税を8%払っている。日用品は買い控えることができないから、どうしても消費税は家計に重くのしかかってくるのである。この消費税がせめてゼロになってくれれば、こうした家計も少しは余裕が出てくる。もう少し余裕のある世帯は、消費を増やしてくれるかもしれない。そうすれば、やがて国民の消費も高まり、良いサイクルが生まれ、その間に労働者をより保護するような制度を用意すれば、人々の賃金がいよいよ上がってくるかもしれない。



★というかそもそも消費税というのは、ビルトインスタビライザーを無視した最低の税制であるから、廃止以外選択肢がない。

消費税は安定財源。不景気になっても、安定した税収を確保できる。だから消費税が良い。
というのが、財務省や経済学者の言い分である。もちろんこの人たちは、これまで説明してきた前提を共有していない。政府の借金をこれ以上増やさないために、安定財源の消費税を、ということである。
しかしだ、考えてみて欲しいのだが、不景気で大変なときに、安定した税収を確保するって、なんだそりゃ?である。不景気のときは、なるべく税金などが家計の負担にならないようになっているべきで、そうじゃないと家計が破綻してしまう。
所得税などの累進課税は、(不景気で)所得が下がれば、自動的に税負担も下がる、という仕組みになっている。これが、ビルトインスタビライザーである。消費税はその範疇に入らない。繰り返すが、ビルトインスタビライザーとして機能しないことを財務省は「良いこと」だと思っている。
まさに、数字の前提の価値判断の議論がここで重要になってくるのだ!なんという伏線!

さすがに疲れてきた。もっと言いたいことがあるのだが、今回はすでに目的を達成したから、ここで終わりにしよう。国債の決済の話題もまた今度書くことにする。
一応まとめておくと、

・政府は通貨発行権を有しており、税金や国債を財源にする必要はない
・政府の負債は、家計で言うところの借金ではない
・税金にはもっと別の機能がある
・所得がなかなか上がらず、貧困家庭が増えるなかで、もっとも手っ取り早い政策が消費税廃止である。

1) 以下の反論があり得る。銀行が会社に融資するときなどに、信用創造がなされているではないか。お金を発行できるのは政府だけではない、と。
もちろん、信用創造によって日々マネーが生まれている。が、信用創造においては、必ず負債と資産が両方とも発生している。七十七銀行が大塚家具に1億円貸すときには、1億円の負債が大塚家具に計上され、1億円の資産が七十七銀行に計上される。全体としてはゼロ、である。(この「全体」のことを、金融資産という。だから上のことを正確に言うと、「金融資産を増やすことができるのは、政府だけである」ということになる)
もっとテクニカルな話をすると、政府が銀行の準備預金に振り込んでくれる(=マネーを発行してくれる)から、銀行は信用創造ができる。これを債務ヒエラルキーと言うが、詳細は控える。

2)「その通貨で税金を払えるからこそ、その通貨がみんなに使われる」という考え方を、tax-driven money(税金が駆動するマネー)と呼ぶ。しかしなぜある特定の通貨が出回るのか、ということについては学術的な議論もたくさんあるらしく、これがすべてではないらしい。正直、私はあまり深く知らない。(が、今回は税金の重要な役割ということで、紹介した。これ自体は間違いではない。)

2019年7月3日水曜日

誰もがそれを知っている

◎衣装の確信犯的な対照から隠れたストーリーを妄想する

ペネロペ・クルスにこれほど地味な衣装を着せることに終始した映画があっただろうか。と書くとペネロペ・クルスの映画を全部網羅しているかのようだが、そんなことはない。
言いたいのは、とにかくペネロペ・クルスの衣装が地味ということだ。
一方で、ハビエル・バルデム演じるパコの妻であるベア(バルバラ・レニー)は、結構派手な服を纏っている。最初の登場こそ平凡な赤のカーディガンだが、シャワーを済ませたJ・バルデムが目にするのは、翌日の結婚式のための背中がぱっくり空いたドレスだ。ここでややセクシャルな描写(J・バルデムが背中のチャックを閉めようとしつつ、ドレスの中に手を入れて戯れる)が続く。
その後も、落ち着いた服装の場合もあるが、それでも花柄のチュニックを着ていたり、下着姿のシーンが結構多い。
対するペネロペ・クルスは、終始、紺色のパーカーなどの、暗い色の、かつ露出も少ない服装である。ラストシーンにようやく、ちょっとだけeye-catchingなブルーのシャツを着てはいるが、それでもだいぶ控えめと言ってよい。

もちろん、これはペネロペ・クルスの娘が誘拐されてしまう映画である。母親が露出度高めだと、ムードがおかしくなるという判断もあるとは思う。しかしながら、上記した結婚式のドレスですら、ペネロペ・クルスのそれは、結構地味である。

そこで、もう少し別の「背景」も探ってみたい。
さきほどペネロペ・クルスと対比的に取り上げたベアをめぐっては、セクシャルな視線が散りばめられていることに注意したい。
先ほどのJ・バルデムとの絡みに加え、例えば、ベアのドレスは、親戚がつくったもので、ベアが「夫が気に入っていた」と伝えると、「ドレス?それとも中身?」と返す。
あるいは、誘拐されたイレーネに対して、警察に通報すべきと主張するベアに対して、J・バルデムが「実の母親だったらそうとは言えない」と返すと、ベアが「子供がいなくてよかったわ」と捨て台詞を吐く。
ここで気づくのだが、そういえばJ・バルデムとベアには、子供がいない。
別にいなくたっていいのだが、しかし、どうもこれは、あえてそういう設定にしているのではないか、と考えたくなる。ベアをめぐるセクシャルな視線、冒頭のJ・バルデムとの絡み、こうした側面と照らし合わせたときに、この夫婦は子供がいないというより、できないのではないかと思えてくる。どうもセックスレスというよりは、なかなか子供ができない、という感じがする。映画における夫婦の描写からはそう思える。
そして、そんななか、判明する事実を思い出してほしい。
そう、イレーネはJ・バルデムの子供なのである。つまり、ここでベアが知らされるのは、イレーネが夫の子供である、同時に、夫には繁殖能力があるということなのである。
つまり、不妊の原因は自分かもしれない、という可能性が浮上する。
彼女が最終的に何も言わず家を出ていくのは、もしかするとこういった要素もないまぜになった葛藤なのかもしれない。

とたんに、このベアという女性の存在が、痛々しいものとして印象付けられてくる。
実に閉鎖的な共同体を舞台にしたこの映画において、彼女の出自は不明なままなのであるが、彼女はもう少し都会の出身なのではないか。更生施設の職員という進歩的な職業に従事しつつ、おしゃれで露出度高めな服を愛し、夫を献身的に支える。夫も妻を愛している。決して不協和音は目立たない。にもかかわらず、(少なくとも映画内においては)セックス・アピールの乏しいペネロペ・クルスとの間に子供がおり、自分との間には子供もできない。そんな一人の女性の、なんともいえぬ挫折感。

そんなことを妄想してみた。










2018年1月19日金曜日

女神の見えざる手


アメリカのTVドラマにありがちな、そして最近では日本のテレビドラマなんかでも真似してる印象のある、意識の高めなセリフのアップテンポな応酬、俺たちデキるぜ的なアホらしい立ち振る舞いは正直嫌いなのだが、しかしこの映画は大変な力作であり、感動的な作品になっている。近年のアメリカ映画でも屈指の娯楽性、迫力。まず、この映画にはアップテンポな語り口、カット割りの合間に、ハッとさせる持続がある。
わかりやすいものをあげれば、スローン(J・チャスティン)とシュミット(マーク・ストロング)が出会う、どこかのビルの玄関口からの持続ショット。ストーリーの重要な結節点、特にキーとなるキャラクターの出会いを長回しで撮る、というお手本通りの構成。

しかしより細かい部分を指摘するなら、エスコート・サービスの男(ジェイク・レイシー)がJ・チャスティンとの行為のあと、ホテルの部屋から立ち去っていくショットである。物語の都合上、これは2回あるが(1回目は行為をすべて終えたあと、2回目は行為が未遂に終わったあと)、なぜかどちらも明らかにカットが割られず、画面隅からゆっくりと去っていくエスコート・サービスの男の足どりを捉えていく。言ってみれば単なる男娼(!)に過ぎないこの人物の、部屋から去っていく姿をやたらと画面に刻むこの姿勢が、映画のサブ・テーマを浮かび上がらせる重要な伏線になっている。

そのサブ・テーマとは何か。そもそもメイン・テーマは何か。
この映画は、J・チャスティン演じるロビイストの、圧倒的予見性と戦略性によって周囲の予想を上回っていくそのエンターテインメント性を売りにしている。その映画における「駆け引き」こそがメイン・テーマであり、(だからこそ)やっぱりラストには「どんでん返し」が待っている。少しネタバレであるが、J・チャスティンは最後の最後で、「計画」を完遂し、勝利する。しかし一方で、ここが大事だが、計画を見事に完遂してみせたJ・チャスティンは、どこか浮かない顔である。その理由はすぐにわかることだが、彼女はチームメイトでありながらプライバシーを暴露して裏切ってしまった、エズメ・マヌチュリアンに対して負い目を感じているのである。だから形式上「勝利」で終わった聴聞会のシーンは、彼女が、マヌチュリアンが「立ち去っていく」姿をじっと見つめていくショットであり、そこにカタルシスはなく、ぼんやりとした影がある。

もちろんこれぐらいのドラマツルギーならいくらでもあるであろう。アメコミ映画ですら、最近は善悪の分け難さをやたらと強調してくる時代である。だがこの映画が素晴らしいのはそれだけではない。上述したJ・チャスティンの倫理的負い目を、エスコート・サービスとのエピソードによって、より深い次元で表現している点が秀逸なのである。

このエスコート・サービス、J・チャスティンと体を重ねた後に、何かと彼女の仕事内容などを探ってきて、彼女に「あなたの特技を金で買っているだけで、外では他人よ」と説き伏せられる始末である。その通りなのだが、しかしこのやり取りが最終的には以下の事実を強調する。すなわち、エスコート・サービスに対しては素性を隠すことを当然とみなすJ・チャスティンが、本職においては、部下であるエズメ・マヌチュリアンの隠された過去をテレビの前で暴露する(「目的を果たすためなら仕方ない」と彼女は言い張る)。この矛盾が、聴聞会のクライマックスで彼女に突き刺さる。(ネタバレだが)なんと聴聞会の証人としてエスコート・サービスが召喚されてしまい、彼女との関係を尋問されるのである。絶体絶命と思われたとき、J・チャスティンとの関係を尋ねられたエスコート・サービスは、毅然とした態度で、「関係を持っていない」と証言するのである。決してJ・チャスティンとエスコート・サービスの視線は交わらぬが、まさにここで彼は、仕事上の「守秘義務」に従い、彼女を守るのである(映画ではJ・レイシー演じるエスコート・サービスが、J・チャスティンに対して個人的な感情を持っているように描かれていると言えなくもないため、全き「守秘義務」なのか、半分は「情」なのかはあいまいである)。

「(エスコート・サービスに)救われる」ことで、「自分が(部下に)やってしまったこと」が、逆説的に彼女自身に突き刺さる。だから彼女は、計画を完遂したその直後にも、周囲を見事にだましたその瞬間にも、自分の犯した(本当の)罪に直面し、エズメ・マヌチュリアンの立ち去る姿を弱弱しい視線で追いかけるのである。プロットは計画通りでも、心の旅は予測不能、といったところか。

なんと素晴らしい脚本であり、そしてその旨味を生かした演出であることか。

(※全く別の観方もできる。この映画の特徴は、「どんでん返し」だけでなく、「どんでん返し」を起こす主体(=ロビイスト)をそのまま主人公に据えていることである。それにより上述したような「どんでん返しの苦悩」までも観客に体験させているのである。)



いったい、どんな名脚本家がこの素晴らしい、「ザッツ・アメリカ映画」な脚本を書いたのかと思いきや、これがデビュー作のJonathan Pereira。法律の仕事をしていたことが役立ったようだが、韓国の小学校で英語を教えながらこの脚本を書いたのだという。うーむ、あっぱれ。



ところで。

エスコート・サービスが部屋から立ち去る場面が印象的なように、この映画では人々がJ・チャスティンを置いて立ち去っていくショットが印象的である。空港でマヌチュリアンが立ち去るショット、マーク・ストロングが部屋から立ち去るショット。弁護士がエレベータホールから立ち去るショット。そして、「取り残された」J・チャスティンを捉えるショット。

これが最後にどうなるか。矯正施設で弁護士が面会に来る。面会室で軽く会話をしたあと、J・チャスティンが、ドアを開けて部屋を出る。興味深いことに、「J・チャスティンがドアを開けて部屋を出るショット」は映画においてこれが初めてである。つまり、最後になってJ・チャスティンは、「立ち去られる女」から「立ち去る女」へと変貌しているのだ。それが物語的に意味するところは、誰もが様々に感じ取ったに違いない、彼女の美しい葛藤のプロセスである。



最後に、J・チャスティンの圧倒的存在感を称えておく。銃会社のトップの愚かな熱弁を無表情で聞く彼女の真っ赤な唇は、ダークナイトにおけるジョーカーの唇よりも恐ろしい。

2017年6月4日日曜日

ジュリエッタ

監督:ペドロ・アルモドバル

アドリアナ・ウガルテのパートは、きわめてクラシカルな、それでいて大変力のある演出のうねりで魅せ、エマ・スアレスのパートはベルイマンのように鬱々とした亡霊のように流れる時間と孤独の表象が胸を打つ。

加藤幹郎が言うように、列車はエロスとタナトスが表裏一体となって人々を激情へと誘う装置であり、海=大海原もまたそのような装置としてある。列車を降りた老人は死に、列車内では男女が体を交わらせる。さらにその男女は海の真ん中、船の上で抱き合い、しかしやがて男は大海原で非業の死を遂げるだろう。

それにしても、列車における演出は、アルモドバルらしからぬ(というのも、彼はここまで丹念な空間的演出を施すタイプではないので)見事な達成である。枝が窓に当たる瞬間に初老の男が客席にやって来る。男はジュリエッタに話しかけようとするも、ジュリエッタの方は彼を良く思わずに退席してしまう。彼がジュリエッタに向けた最期の視線が、彼女に一生付きまとう(この視線の演出自体はアルモドバル的だが)。
ジュリエッタが次に食堂車へ行くと、そこにはショアンが座っている。二人は一度も眼を合わすことなく、窓の外の雄鹿を目撃することで心を通わせる。しばらくのシーンのあと、電車が急停車して、どうやら非常事態が起きたことが予感されるのだが、ジュリエッタはそのとき、最初にいた席に初老の男性の鞄が、席に置いてあるのを発見する。肝心の男はいない。
最初、ジュリエッタはその鞄を手にとるが、勝手に見るのは良くないと思ったのだろう。逡巡した挙句、椅子に戻す。しかし、窓の外で一人の男性が走っていく姿が横切ると、ジュリエッタは再び鞄を手にとり、チャックをあけ、それが全くの空であることを発見する。
ここが大変重要な部分なのだが、窓の外で男が走っていく姿は、別にそれ自体直接は彼女が鞄を開けることを後押しはしない。しかし間違いなく、彼女はその「光景」によって、鞄をあけることを決意するのである。この非言語的因果関係の視覚的な構築こそが、この一連のシーンにおける見事な到達である。ちなみにこのシーンはワンショットの持続した時間で撮られており、それがさらにこのシーンを力強い(彼女の逡巡を同じ速度で観客が共有する)、決定的なものにしている。
(終盤、ロレンソがジュリエッタの日記を見つけるシーンはこのシーンと相似形を成す持続ショットだ。)

以上のような逡巡や心変わりこそが、この映画の重要なテーマであり、おそらくアリス・マンローの小説に通底するテーマでもあろう。
序盤、ジュリエッタがマドリードに残る決断をするのは、ベアと偶然すれ違ったからだ。
あるいは、ショアンは、ジュリエッタと口論した挙句に、漁に出て、帰らぬ人となる。
その一つ一つの選択や心変わりが、彼女自身の人生に重くのしかかり、罪の意識に苛まれる。

あるいは彼女の脳裏に焼き付く「視線」の数々。初老男性の視線、アンティアの最後の別れの視線、マリアンの恐るべき視線。


それでも映画が希望を与えるのは、多発性硬化症に苦しむアバとジュリエッタの、慎ましくも美しい光が差し込む病室での会話があるからだし(この死に直面した穏やかさこそがアルモドバルだ!)、ロレンソが彼女を「見守って」いるからだ。

ジュリエッタと娘たちが見に行く映画は、『ウィンターズ・ボーン』だ!(シングルマザーの過酷な運命を描いた秀作)

2017年1月4日水曜日

2016年に見た映画たち、見逃した映画たち

ネット配信サイトなどを利用すれば、未公開の映画も見れるし、〇〇年ベスト映画、という概念もかなりあいまいになってきた。
もちろん、○○年ベスト映画、というのは、「○○年公開映画」という制約のもとで自分の趣味と意見と悪口を開陳してアピールする場であり、その制約の中身に本質的な意味なんてない。映画の製作は色んな事情で延期したり短縮したりするのだから、その映画がその年に公開されたことに大きな意味はない。
とはいえ、優れた批評家は、そのベスト映画のリストによって、時代の声を反映しようとする。カイエ・デュ・シネマ誌でベストにあげられた"Toni Erdeman"は、未だ日本では公開されていないが、なるほど予告編を見ただけでその”現代性”を感じずにはいられない(もちろんそんな単純な話ではないと思うけど!)。
しかし、私は地方の田舎に住む一市民であり、観れる映画は限られている。限られた映画から、何らかの時代性、批評性をはらんだベストテンを構築できるほど、映画は容易ではない。

とはいえ、そんないち映画ファンにとっても、『ホーリーモーターズ』と『コズモポリス』という2つのリムジン映画が同年に公開されるなど、何かを言いたくなる偶然は時にやってくるものだ。
その偶然をことさら強調して熱狂する半ば開き直った祝祭感こそが、一年を振り返るにふさわしいテンションなのかもしれない。その熱狂は一時的であるべきだが。


(写真はすべてIMDBより使用)

『ブリッジ・オブ・スパイ』(スティーヴン・スピルバーグ監督作品、アメリカ)

考えてみると盛りだくさんな映画だった。
法廷劇であり、一級の航空映画でもあり、なおかつ超渋い冷戦映画であり、家族の映画でもある。
私はこの映画の人物達がみせる、純粋な驚き、哀しみ、怒り、それらを的確に撮るカメラに感動した。
皿が落ちる音でビックリする表情、夫がテレビで報道されているのを見てビックリする表情、突然家の窓が割れて恐怖する表情。戦争の映像を見て涙する生徒たち。疲れて眠ってしまうこと。
人生とは、映画とは、そんな単純極まりない生理的なリアクションの集積ではないかと、思いたくなる。
複雑な政治的駆け引き、ソ連のスパイの複雑な人物造形、一級の照明とカメラワークを背景に、浮かび上がってくるのはこれらの"簡潔さ"、"シンプルさ"であった。こうしたシンプルな味わいをして、古典的手触り、と言いたい。





『母よ、』(ナンニ・モレッティ監督作品、イタリア)
夢や妄想、過去、現在が入り乱れる構造、などと言えば、まるで『マルホランド・ドライブ』のような官能的で魅惑的な悪夢映画を想起させるかもしれないが、『母よ、』はそのような映画ではない。夢、妄想、過去の回想が入り乱れていながら、それらは官能とは無縁の淡白さで、悪夢とは無縁のリアルさで、主人公が対峙しなければいけない苛立たしい現実をこそ強調してみせる。
その意味において、この映画はベルイマン的といえるかもしれない。
しかし残酷な現実を突きつける一方で、映画は全編にわたって優しさに満ち溢れている。この厳しい現実の中に見出される優しさと平穏は、同監督の『息子の部屋』から全く変わることがない。
この優しさはどこから来るのか。
例えば人々が歩く姿。その軌跡は一直線ではなく、曲線をなぞる。それは彼/彼女たちの時間を表象しているのだろうか。曲線の動きでつながる人々を、適切な距離を保ったまま(すなわちクローズアップによる感情の露呈を禁じ、ロングショットによる空虚な叙情を抑制しながら)映しとるまなざしに、監督自身の映画観=人生観が凝縮されている。




『ジュリエッタ』(ペドロ・アルモドヴァル監督作品、スペイン)
すでに唯一無二の巨匠の名声を獲得している監督でありながら、恥ずかしいことにこの映画が初見であった。(その後、急いでいくつかの作品をDVDで観ることになった。)

その色彩の配置の豊かさと物語的な意味については、多くの論評で語られているから、特に付け加えることはない。(パンフレットの北小路隆志氏の行き届いた批評を参照されたい)

端的にいって、この身も蓋もない怒涛の物語に、ただただ魅了されてしまった。
一人として善人はおらず、かといって悪人もいない。善や悪が物語を駆動するのではなく、ただひたすら運命としか言いようのない巡りあわせに導かれながら、罪深く、欲深い人々の人生が綴られていく。映画はその人生を肯定も否定もしない。ただそこに、物語がある。


あとから急いで見た『オール・アバウト・マイマザー』や『ボルベール』の方が好みだが、初見という記念もこめて、ベスト映画として記憶しておきたい。




『クリーピー 偽りの隣人』(黒沢清監督作品、日本)
強烈すぎる惨劇で幕を開けたかと思えば、直後にはウソみたいに穏やかで退屈な日常が描かれる。
だがその退屈な日常には、明らかに亀裂が走っており、その亀裂は隣人=香川照之によってあられもなく露呈されてしまう。
映画の編集手法と同様に、日常は恐るべき強引さで非日常性によって切断されていき、そこからはもう戻ることができない。

しかし、黒沢清は、戻る機会を最後に与える。そして竹内結子は、確かに戻ってくる。しかしそれは決してハッピーエンドではない。あちら側の世界から戻ってきた人間は、そのトラウマを抱え続けることになるだろう。非日常を通過したあとの日常は、以前の日常ではない。
まるで凄惨な戦争の現場から帰還した兵士のような役柄を与えられた竹内結子の、最後の叫びを聞き逃してはいけない!!




『ロブスター』(ヨルゴス・ランティモス監督作品、イギリス)



監督のヨルゴス・ランティモスはギリシャの映画監督で、『籠のなかの乙女』が少し話題になったが、その後ギリシャの経済危機の影響からイギリスに移住して映画を作っているのだそうだ。クソかっけぇ!

『籠のなかの乙女』同様、人々はまるで機械人形のようにぎこちない動きを強要され、不器用すぎるダンスを披露する。美しいロケーションと撮影も手伝ってか、そのシュールでブラックな笑いが、今作は物凄くキマッテいる。
上記のような作劇的な人間の動きだけが魅力ではない。むしろこうした描写を通して、人間がもつ普遍的な孤独と底意地の悪さが、凄い強度で滲み出ているからこそ、人物達はこれ以上なく「人間的」であり、「共感を誘う」。ということで、まさにブラック・コメディの教科書。
レイチェル・ワイズとコリン・ファレルが夢中になってキスをするシーンの圧倒的な破壊力が素晴らしい。



その他では、
『オマールの壁』(ハニ・アブ・アサド監督作品 パレスチナ)、『キャロル』(トッド・ヘインズ監督作品、アメリカ)、『人生は小説よりも奇なり』(アイラ・サックス監督作品、アメリカ)、『禁じられた歌声』(アブデラマン・シサコ監督作品、モーリタニア)をあげたい。
いずれも1度の鑑賞にとどまってしまい、その魅力を存分に味わえた自信はないのだが。

『オマールの壁』は、イスラエル・パレスチナ問題に、サスペンス・アクションとして真正面から対峙した力作で、主役のアダム・バクリの身体能力を活かしたアクロバティックなアクションと、大胆な編集術に心打たれた。身体的に、空間的に壁を超える動作が反復されるたびに、その心理的、歴史的な壁が強化されていく。
『キャロル』は50年代のアメリカを舞台にしたレズビアン映画であり、『人生は小説よりも奇なり』は現代のマンハッタンを舞台にしたゲイ映画である。
『キャロル』の二人が現実から逃避しようともがき苦しむことで、儚くも鮮烈な愛を刻み付けるのに対して、『人生は小説~』の二人は、現実と折り合いをつけようと苦しみながら、大切なものを次の世代に残していく。
『禁じられた歌声』はまるでアルトマンのような印象だが、再見しないとなかなかものが言えない。


昨年のアカデミー作品賞に選ばれた『スポットライト』も素晴らしく、ジョニー・デップの『ブラック・スキャンダル』も力のある映画だった。なぜこのふたつのアメリカ映画をあげるかといえば、撮影がマサノブ・タカヤナギであるからだ。
マサノブ・タカヤナギは我らが東北大学を卒業してアメリカに渡った撮影監督で、これらの前にもデヴィッド・ラッセルの『世界にひとつのプレイブック』を撮っているハリウッドでトップクラスの撮影監督だ。彼が撮った映画は何でも見ていこうじゃないか。

アレクサンドル・ソクーロフの『フランコフォニア』はなかなか手ごわい作品で、これまでの彼の作品とは相当に趣が異なる。
僕が最も好きな映画監督はアトム・エゴヤンだが、彼の最新作『手紙は憶えている』は、ベストにはあげないでおく。題材の独創性、ラストで明らかになる構造的な奥深さには衝撃を受けるものの、スリラーとしての演出は、やや緊張感に欠けると思われた。

以上。申し訳ないがすべて男性監督作品になってしまった。


見逃した映画としては、『君の名は。』、『この世界の片隅に』、『聾の形』といった日本が世界に誇るアニメーション3つ。
ジャ・ジャンクーは今回も見れなかった。
『すれ違いのダイアリーズ』がとっても評判がよく見たかったのだが、確か何かと迷ってやめてしまった。最近実感するのが、タイトルやポスターで見る映画を決めすぎであると。これは見る気の起きないタイトルにしてしまう配給会社にも問題があると思うが、しかし「自分は映画ファンだからそんな表面的なバイアスには流されない」なんて思わないほうがいいな、と。

ケヴィン・ベーコンが出ている『コップ・カー』がB級カーアクションとしてめちゃめちゃ評判が良い。
しかしどこかで「面白いB級映画が面白くて、それで?」と、素直になれない自分がいる。

ヴェンダースの『誰のせいでもない』はまだ仙台でやっているので何としても見る予定。

2017年は、スコセッシ『沈黙』も楽しみだが、何よりクリスチャン・ムンジウの『エリザのために』だ。
あるいはアスガー・ファルハディの新作もひょっとすると年内に見られるかもしれない。