2018年1月19日金曜日

女神の見えざる手


アメリカのTVドラマにありがちな、そして最近では日本のテレビドラマなんかでも真似してる印象のある、意識の高めなセリフのアップテンポな応酬、俺たちデキるぜ的なアホらしい立ち振る舞いは正直嫌いなのだがしかしこの映画は大変な力作であり、感動的な作品になっている。近年のアメリカ映画でも屈指の娯楽性、迫力。まず、この映画にはアップテンポな語り口、カット割りの合間に、ハッとさせる持続がある。
わかりやすいものをあげれば、スローン(J・チャスティン)とシュミット(マーク・ストロング)が出会う、どこかのビルの玄関口からの持続ショット。ストーリーの重要な結節点、特にキーとなるキャラクターの出会いを長回しで撮る、というお手本通りの構成。

しかしより細かい部分を指摘するなら、エスコート・サービスの男(ジェイク・レイシー)がJ・チャスティンとの行為のあと、ホテルの部屋から立ち去っていくショットである。物語の都合上、これは2回あるが(1回目は行為をすべて終えたあと、2回目は行為が未遂に終わったあと)、なぜかどちらも明らかにカットが割られず、画面隅からゆっくりと去っていくエスコート・サービスの男の足どりを捉えていく。言ってみれば単なる男娼(!)に過ぎないこの人物の、部屋から去っていく姿をやたらと画面に刻むこの姿勢が、映画のサブ・テーマを浮かび上がらせる重要な伏線になっている。

そのサブ・テーマとは何か。そもそもメイン・テーマは何か。
この映画は、J・チャスティン演じるロビイストの、圧倒的予見性と戦略性によって周囲の予想を上回っていくそのエンターテインメント性を売りにしている。その映画における「駆け引き」こそがメイン・テーマであり、(だからこそ)やっぱりラストには「どんでん返し」が待っている。少しネタバレであるが、J・チャスティンは最後の最後で、「計画」を完遂し、勝利する。しかし一方で、ここが大事だが、計画を見事に完遂してみせたJ・チャスティンは、どこか浮かない顔である。その理由はすぐにわかることだが、彼女はチームメイトでありながらプライバシーを暴露して裏切ってしまった、エズメ・マヌチュリアンに対して負い目を感じているのである。だから形式上「勝利」で終わった聴聞会のシーンは、彼女が、マヌチュリアンが「立ち去っていく」姿をじっと見つめていくショットであり、そこにカタルシスはなく、ぼんやりとした影がある。

もちろんこれぐらいのドラマツルギーならいくらでもあるであろう。アメコミ映画ですら、最近は善悪の分け難さをやたらと強調してくる時代である。だがこの映画が素晴らしいのはそれだけではない。上述したJ・チャスティンの倫理的負い目を、エスコート・サービスとのエピソードによって、より深い次元で表現している点が秀逸なのである。

このエスコート・サービス、J・チャスティンと体を重ねた後に、何かと彼女の仕事内容などを探ってきて、彼女に「あなたの特技を金で買っているだけで、外では他人よ」と説き伏せられる始末である。その通りなのだが、しかしこのやり取りが最終的には以下の事実を強調する。すなわち、エスコート・サービスに対しては素性を隠すことを当然とみなすJ・チャスティンが、本職においては、部下であるエズメ・マヌチュリアンの隠された過去をテレビの前で暴露する(「目的を果たすためなら仕方ない」と彼女は言い張る)。この矛盾が、聴聞会のクライマックスで彼女に突き刺さる。(ネタバレだが)なんと聴聞会の証人としてエスコート・サービスが召喚されてしまい、彼女との関係を尋問されるのである。絶体絶命と思われたとき、J・チャスティンとの関係を尋ねられたエスコート・サービスは、毅然とした態度で、「関係を持っていない」と証言するのである。決してJ・チャスティンとエスコート・サービスの視線は交わらぬが、まさにここで彼は、仕事上の「守秘義務」に従い、彼女を守るのである(映画ではJ・レイシー演じるエスコート・サービスが、J・チャスティンに対して個人的な感情を持っているように描かれていると言えなくもないため、全き「守秘義務」なのか、半分は「情」なのかはあいまいである)。

「(エスコート・サービスに)救われる」ことで、「自分が(部下に)やってしまったこと」が、逆説的に彼女自身に突き刺さる。だから彼女は、計画を完遂したその直後にも、周囲を見事にだましたその瞬間にも、自分の犯した(本当の)罪に直面し、エズメ・マヌチュリアンの立ち去る姿を弱弱しい視線で追いかけるのである。プロットは計画通りでも、心の旅は予測不能、といったところか。

なんと素晴らしい脚本であり、そしてその旨味を生かした演出であることか。

(※全く別の観方もできる。この映画の特徴は、「どんでん返し」だけでなく、「どんでん返し」を起こす主体(=ロビイスト)をそのまま主人公に据えていることである。それにより上述したような「どんでん返しの苦悩」までも観客に体験させているのである。)



いったい、どんな名脚本家がこの素晴らしい、「ザッツ・アメリカ映画」な脚本を書いたのかと思いきや、これがデビュー作のJonathan Pereira。法律の仕事をしていたことが役立ったようだが、韓国の小学校で英語を教えながらこの脚本を書いたのだという。うーむ、あっぱれ。



ところで。

エスコート・サービスが部屋から立ち去る場面が印象的なように、この映画では人々がJ・チャスティンを置いて立ち去っていくショットが印象的である。空港でマヌチュリアンが立ち去るショット、マーク・ストロングが部屋から立ち去るショット。弁護士がエレベータホールから立ち去るショット。そして、「取り残された」J・チャスティンを捉えるショット。

これが最後にどうなるか。矯正施設で弁護士が面会に来る。面会室で軽く会話をしたあと、J・チャスティンが、ドアを開けて部屋を出る。興味深いことに、「J・チャスティンがドアを開けて部屋を出るショット」は映画においてこれが初めてである。つまり、最後になってJ・チャスティンは、「立ち去られる女」から「立ち去る女」へと変貌しているのだ。それが物語的に意味するところは、誰もが様々に感じ取ったに違いない、彼女の美しい葛藤のプロセスである。



最後に、J・チャスティンの圧倒的存在感を称えておく。銃会社のトップの愚かな熱弁を無表情で聞く彼女の真っ赤な唇は、ダークナイトにおけるジョーカーの唇よりも恐ろしい。

2017年6月4日日曜日

ジュリエッタ

監督:ペドロ・アルモドバル

アドリアナ・ウガルテのパートは、きわめてクラシカルな、それでいて大変力のある演出のうねりで魅せ、エマ・スアレスのパートはベルイマンのように鬱々とした亡霊のように流れる時間と孤独の表象が胸を打つ。

加藤幹郎が言うように、列車はエロスとタナトスが表裏一体となって人々を激情へと誘う装置であり、海=大海原もまたそのような装置としてある。列車を降りた老人は死に、列車内では男女が体を交わらせる。さらにその男女は海の真ん中、船の上で抱き合い、しかしやがて男は大海原で非業の死を遂げるだろう。

それにしても、列車における演出は、アルモドバルらしからぬ(というのも、彼はここまで丹念な空間的演出を施すタイプではないので)見事な達成である。枝が窓に当たる瞬間に初老の男が客席にやって来る。男はジュリエッタに話しかけようとするも、ジュリエッタの方は彼を良く思わずに退席してしまう。彼がジュリエッタに向けた最期の視線が、彼女に一生付きまとう(この視線の演出自体はアルモドバル的だが)。
ジュリエッタが次に食堂車へ行くと、そこにはショアンが座っている。二人は一度も眼を合わすことなく、窓の外の雄鹿を目撃することで心を通わせる。しばらくのシーンのあと、電車が急停車して、どうやら非常事態が起きたことが予感されるのだが、ジュリエッタはそのとき、最初にいた席に初老の男性の鞄が、席に置いてあるのを発見する。肝心の男はいない。
最初、ジュリエッタはその鞄を手にとるが、勝手に見るのは良くないと思ったのだろう。逡巡した挙句、椅子に戻す。しかし、窓の外で一人の男性が走っていく姿が横切ると、ジュリエッタは再び鞄を手にとり、チャックをあけ、それが全くの空であることを発見する。
ここが大変重要な部分なのだが、窓の外で男が走っていく姿は、別にそれ自体直接は彼女が鞄を開けることを後押しはしない。しかし間違いなく、彼女はその「光景」によって、鞄をあけることを決意するのである。この非言語的因果関係の視覚的な構築こそが、この一連のシーンにおける見事な到達である。ちなみにこのシーンはワンショットの持続した時間で撮られており、それがさらにこのシーンを力強い(彼女の逡巡を同じ速度で観客が共有する)、決定的なものにしている。
(終盤、ロレンソがジュリエッタの日記を見つけるシーンはこのシーンと相似形を成す持続ショットだ。)

以上のような逡巡や心変わりこそが、この映画の重要なテーマであり、おそらくアリス・マンローの小説に通底するテーマでもあろう。
序盤、ジュリエッタがマドリードに残る決断をするのは、ベアと偶然すれ違ったからだ。
あるいは、ショアンは、ジュリエッタと口論した挙句に、漁に出て、帰らぬ人となる。
その一つ一つの選択や心変わりが、彼女自身の人生に重くのしかかり、罪の意識に苛まれる。

あるいは彼女の脳裏に焼き付く「視線」の数々。初老男性の視線、アンティアの最後の別れの視線、マリアンの恐るべき視線。


それでも映画が希望を与えるのは、多発性硬化症に苦しむアバとジュリエッタの、慎ましくも美しい光が差し込む病室での会話があるからだし(この死に直面した穏やかさこそがアルモドバルだ!)、ロレンソが彼女を「見守って」いるからだ。

ジュリエッタと娘たちが見に行く映画は、『ウィンターズ・ボーン』だ!(シングルマザーの過酷な運命を描いた秀作)

2017年1月4日水曜日

2016年に見た映画たち、見逃した映画たち

ネット配信サイトなどを利用すれば、未公開の映画も見れるし、〇〇年ベスト映画、という概念もかなりあいまいになってきた。
もちろん、○○年ベスト映画、というのは、「○○年公開映画」という制約のもとで自分の趣味と意見と悪口を開陳してアピールする場であり、その制約の中身に本質的な意味なんてない。映画の製作は色んな事情で延期したり短縮したりするのだから、その映画がその年に公開されたことに大きな意味はない。
とはいえ、優れた批評家は、そのベスト映画のリストによって、時代の声を反映しようとする。カイエ・デュ・シネマ誌でベストにあげられた"Toni Erdeman"は、未だ日本では公開されていないが、なるほど予告編を見ただけでその”現代性”を感じずにはいられない(もちろんそんな単純な話ではないと思うけど!)。
しかし、私は地方の田舎に住む一市民であり、観れる映画は限られている。限られた映画から、何らかの時代性、批評性をはらんだベストテンを構築できるほど、映画は容易ではない。

とはいえ、そんないち映画ファンにとっても、『ホーリーモーターズ』と『コズモポリス』という2つのリムジン映画が同年に公開されるなど、何かを言いたくなる偶然は時にやってくるものだ。
その偶然をことさら強調して熱狂する半ば開き直った祝祭感こそが、一年を振り返るにふさわしいテンションなのかもしれない。その熱狂は一時的であるべきだが。


(写真はすべてIMDBより使用)

『ブリッジ・オブ・スパイ』(スティーヴン・スピルバーグ監督作品、アメリカ)

考えてみると盛りだくさんな映画だった。
法廷劇であり、一級の航空映画でもあり、なおかつ超渋い冷戦映画であり、家族の映画でもある。
私はこの映画の人物達がみせる、純粋な驚き、哀しみ、怒り、それらを的確に撮るカメラに感動した。
皿が落ちる音でビックリする表情、夫がテレビで報道されているのを見てビックリする表情、突然家の窓が割れて恐怖する表情。戦争の映像を見て涙する生徒たち。疲れて眠ってしまうこと。
人生とは、映画とは、そんな単純極まりない生理的なリアクションの集積ではないかと、思いたくなる。
複雑な政治的駆け引き、ソ連のスパイの複雑な人物造形、一級の照明とカメラワークを背景に、浮かび上がってくるのはこれらの"簡潔さ"、"シンプルさ"であった。こうしたシンプルな味わいをして、古典的手触り、と言いたい。





母よ、(ナンニ・モレッティ監督作品、イタリア)
夢や妄想、過去、現在が入り乱れる構造、などと言えば、まるで『マルホランド・ドライブ』のような官能的で魅惑的な悪夢映画を想起させるかもしれないが、『母よ、』はそのような映画ではない。夢、妄想、過去の回想が入り乱れていながら、それらは官能とは無縁の淡白さで、悪夢とは無縁のリアルさで、主人公が対峙しなければいけない苛立たしい現実をこそ強調してみせる。
その意味において、この映画はベルイマン的といえるかもしれない。
しかし残酷な現実を突きつける一方で、映画は全編にわたって優しさに満ち溢れている。この厳しい現実の中に見出される優しさと平穏は、同監督の『息子の部屋』から全く変わることがない。
この優しさはどこから来るのか。
例えば人々が歩く姿。その軌跡は一直線ではなく、曲線をなぞる。それは彼/彼女たちの時間を表象しているのだろうか。曲線の動きでつながる人々を、適切な距離を保ったまま(すなわちクローズアップによる感情の露呈を禁じ、ロングショットによる空虚な叙情を抑制しながら)映しとるまなざしに、監督自身の映画観=人生観が凝縮されている。




ジュリエッタ(ペドロ・アルモドヴァル監督作品、スペイン)
すでに唯一無二の巨匠の名声を獲得している監督でありながら、恥ずかしいことにこの映画が初見であった。(その後、急いでいくつかの作品をDVDで観ることになった。)

その色彩の配置の豊かさと物語的な意味については、多くの論評で語られているから、特に付け加えることはない。(パンフレットの北小路隆志氏の行き届いた批評を参照されたい)

端的にいって、この身も蓋もない怒涛の物語に、ただただ魅了されてしまった。
一人として善人はおらず、かといって悪人もいない。善や悪が物語を駆動するのではなく、ただひたすら運命としか言いようのない巡りあわせに導かれながら、罪深く、欲深い人々の人生が綴られていく。映画はその人生を肯定も否定もしない。ただそこに、物語がある。


あとから急いで見た『オール・アバウト・マイマザー』や『ボルベール』の方が好みだが、初見という記念もこめて、ベスト映画として記憶しておきたい。




クリーピー 偽りの隣人』(黒沢清監督作品、日本
強烈すぎる惨劇で幕を開けたかと思えば、直後にはウソみたいに穏やかで退屈な日常が描かれる。
だがその退屈な日常には、明らかに亀裂が走っており、その亀裂は隣人=香川照之によってあられもなく露呈されてしまう。
映画の編集手法と同様に、日常は恐るべき強引さで非日常性によって切断されていき、そこからはもう戻ることができない。

しかし、黒沢清は、戻る機会を最後に与える。そして竹内結子は、確かに戻ってくる。しかしそれは決してハッピーエンドではない。あちら側の世界から戻ってきた人間は、そのトラウマを抱え続けることになるだろう。非日常を通過したあとの日常は、以前の日常ではない。
まるで凄惨な戦争の現場から帰還した兵士のような役柄を与えられた竹内結子の、最後の叫びを聞き逃してはいけない!!




ロブスター』(ヨルゴス・ランティモス監督作品、イギリス



監督のヨルゴス・ランティモスはギリシャの映画監督で、『籠のなかの乙女』が少し話題になったが、その後ギリシャの経済危機の影響からイギリスに移住して映画を作っているのだそうだ。クソかっけぇ!

『籠のなかの乙女』同様、人々はまるで機械人形のようにぎこちない動きを強要され、不器用すぎるダンスを披露する。美しいロケーションと撮影も手伝ってか、そのシュールでブラックな笑いが、今作は物凄くキマッテいる。
上記のような作劇的な人間の動きだけが魅力ではない。むしろこうした描写を通して、人間がもつ普遍的な孤独と底意地の悪さが、凄い強度で滲み出ているからこそ、人物達はこれ以上なく「人間的」であり、「共感を誘う」。ということで、まさにブラック・コメディの教科書。
レイチェル・ワイズとコリン・ファレルが夢中になってキスをするシーンの圧倒的な破壊力が素晴らしい。



その他では、
オマールの壁』(ハニ・アブ・アサド監督作品 パレスチナ)、『キャロル』(トッド・ヘインズ監督作品、アメリカ)、『人生は小説よりも奇なり』(アイラ・サックス監督作品、アメリカ)、『禁じられた歌声』(アブデラマン・シサコ監督作品、モーリタニア)をあげたい。
いずれも1度の鑑賞にとどまってしまい、その魅力を存分に味わえた自信はないのだが。

『オマールの壁』は、イスラエル・パレスチナ問題に、サスペンス・アクションとして真正面から対峙した力作で、主役のアダム・バクリの身体能力を活かしたアクロバティックなアクションと、大胆な編集術に心打たれた。身体的に、空間的に壁を超える動作が反復されるたびに、その心理的、歴史的な壁が強化されていく。
『キャロル』は50年代のアメリカを舞台にしたレズビアン映画であり、『人生は小説よりも奇なり』は現代のマンハッタンを舞台にしたゲイ映画である。
『キャロル』の二人が現実から逃避しようともがき苦しむことで、儚くも鮮烈な愛を刻み付けるのに対して、『人生は小説~』の二人は、現実と折り合いをつけようと苦しみながら、大切なものを次の世代に残していく。
『禁じられた歌声』はまるでアルトマンのような印象だが、再見しないとなかなかものが言えない。


昨年のアカデミー作品賞に選ばれた『スポットライト』も素晴らしく、ジョニー・デップの『ブラック・スキャンダル』も力のある映画だった。なぜこのふたつのアメリカ映画をあげるかといえば、撮影がマサノブ・タカヤナギであるからだ。
マサノブ・タカヤナギは我らが東北大学を卒業してアメリカに渡った撮影監督で、これらの前にもデヴィッド・ラッセルの『世界にひとつのプレイブック』を撮っているハリウッドでトップクラスの撮影監督だ。彼が撮った映画は何でも見ていこうじゃないか。

アレクサンドル・ソクーロフの『フランコフォニア』はなかなか手ごわい作品で、これまでの彼の作品とは相当に趣が異なる。
僕が最も好きな映画監督はアトム・エゴヤンだが、彼の最新作『手紙は憶えている』は、ベストにはあげないでおく。題材の独創性、ラストで明らかになる構造的な奥深さには衝撃を受けるものの、スリラーとしての演出は、やや緊張感に欠けると思われた。

以上。申し訳ないがすべて男性監督作品になってしまった。


見逃した映画としては、『君の名は。』、『この世界の片隅に』、『聾の形』といった日本が世界に誇るアニメーション3つ。
ジャ・ジャンクーは今回も見れなかった。
『すれ違いのダイアリーズ』がとっても評判がよく見たかったのだが、確か何かと迷ってやめてしまった。最近実感するのが、タイトルやポスターで見る映画を決めすぎであると。これは見る気の起きないタイトルにしてしまう配給会社にも問題があると思うが、しかし「自分は映画ファンだからそんな表面的なバイアスには流されない」なんて思わないほうがいいな、と。

ケヴィン・ベーコンが出ている『コップ・カー』がB級カーアクションとしてめちゃめちゃ評判が良い。
しかしどこかで「面白いB級映画が面白くて、それで?」と、素直になれない自分がいる。

ヴェンダースの『誰のせいでもない』はまだ仙台でやっているので何としても見る予定。

2017年は、スコセッシ『沈黙』も楽しみだが、何よりクリスチャン・ムンジウの『エリザのために』だ。
あるいはアスガー・ファルハディの新作もひょっとすると年内に見られるかもしれない。



2016年8月27日土曜日

4ヶ月、3週と2日 (Part 2 監督インタビューより)

ウェブサイト、The FILMMAKERに監督の当時のインタビューが載っていたので、一部を抜粋する。
http://filmmakermagazine.com/archives/issues/winter2008/4months.php#.V8FDPZiLS00

●映画製作に関して
「人は決断を下すとき、必ずしも理性的ではありません。彼らはただ、決断を下すのです。それが人生というものです。(…)これはフィクションにおいても同様です。」
People aren‘t necessarily very rational when they make decisions. They just decide. And this is how life goes. (…) This belongs to structuring, to fiction, to narration, to another kind of process. 

「映画をつくる際、私はテーマやメッセージからはスタートしません。もしそうすれば、それはただのデモンストレーションになってしまうからです。私はまず、多くの議論を惹起するような、重層的なシチュエーションを探します。」
「私にとってこの映画は責任と決断、そして成長することについての映画です。しかしこのテーマが初めからあるわけではありません」
 I try not to start with a theme or a message, because then it is just going to be a demonstration, and I think it‘s not good for the film. I try to do something else: I try to pick a relevant situation that I think will have enough layers to talk about many [issues].
For me, it speaks about responsibilities and decision-making and about growing up. But you don‘t start [with this in mind]. 


●本作について
(軍隊や警察が登場するわけでもなく、またチャウセスクについては一度も言及されていないにもかかわらず、この映画には抑圧的な空気があるとの指摘について)
「まさしくそれが共産主義政権下での最も耐え難いことでした。そしてそれを現代において表現するのがとても難しかった。そこら中に閉塞感が蔓延り、人々は幸福ではなかったのです。別に逮捕されるわけでもなく、特殊なことが起きたわけでもありませんでしたが、とても生きづらかったのです。」
This was the unbearable part of [living under Communism]. And the difficult part of making a period piece now was to render this thing that was very imprecise. It was a general pressure. People were not happy — they weren‘t arrested and nothing specifically was happening to them, but still it was very difficult.

「本作は、『会話の途中』から始まります。本作では見せていませんが、この会話がとても重要なのです。また、本作は『身振りの途中』で終わります。」
 I opened 4 Weeks in the middle of a conversation — which is essential for me, though I don‘t show it — and I stop the film in the middle of a gesture.

「正しいカメラの位置を見つけることに努めました。それは、観客が画面外でも何かが起きていることを認識しながら事態を見つめることができるようなカメラの位置です。」
The effort was to find the right position of the camera from where you could watch the situation, knowing that some part of it was going to be off-camera. We hoped to render the feeling that this is just a slice of life, that the story is much greater than what we show.

「撮影前にはホテルでのシーンをリハーサルする時間しかありませんでしたが、(それで十分でした。なぜなら)このシーンさえうまくいけば、映画は成功するとわかってしました。」
I only had time to rehearse the hotel scene before the shooting. I knew that if that scene works, the film is going to be [good].

●独裁政権崩壊後のルーマニアについて
「人々は自由をどう行使してよいかわからなかったのです。崩壊後にシステムを立て直していった時期はとても奇妙でした。これには17年間かかりました。」
People didn‘t really know how to use their freedom. It was a strange period in terms of rearranging the system of financing, passing from a state-based rule system to a new one, and this lasted 17 years. 

「2000年はルーマニアにおける産業ゼロ年です。映画は1本もつくられていませんでした。そして、少しずつつくられるようになっていったのです。」
 The year 2000 was the zero year of the industry in Romania. No film was produced. Then, little by little, this started to work a bit —




4ヶ月、3週と2日 (part 1)

監督:クリスチャン・ムンジウ

数年ぶりに見直して、圧倒的力強さに打ちのめされた。
『汚れなき祈り』は劇場で見て、2時間半にわたって全く飽きないにもかかわらず、いまいちピンと来なかったのだが、今が見直し時かもしれない。
ちなみに、新作はGraduationで、これまた傑作の予感。
https://www.youtube.com/watch?v=VimmuogOOks

さて、『4ヶ月、3週と2日』。

冒頭のシーンですでに決定的なのだが、オティリアは動き回る女性であり、対するガビツァは動かない女性である。ファーストショットで、画面の内外を出たり入ったりするオティリアとあくまで画面内で事を成すガビツァが対比されている。これは映画の本題において改めて確認される。つまり、中絶処置としてプローブを挿入されたガビツァは動かないことを命じられる。
オティリアの方は、ホテルの予約や闇医者との面会、恋人の家でのパーティへの参加など、街中を歩き回っては仕事をしていく。行動的なオティリアは自分で行動しないガビツァへのいらだちを隠さない。
このオティリアのいら立ちと、にもかかわらず助けることを全く躊躇わないこと、という情動と行動の静かな対立が、本作のもつ圧倒的な力強さの元になっている。

さて、この二人の対比は、特定の場面においては抑制される。その一つがホテルの一室で男性中絶医とオティリア、ガビツァの二人が会するシーンだ。ここでは(直前の車内のシーンが効いているのだが)あのとにかく動き回るオティリアもまた、闇医者の圧倒的威圧感の前に「動けなく」なってしまう。
二人の女性は一人の絶対的支配権を持った男性医師を前にしては、「動けない女性」として共通項で結ばれる。(二人の共通項という点でいえば、浴室に逃げ込んで水を流す、という行為もまた彼女たちを結び付けている。)

それにしてもこの闇医者の、空間を支配する力、その見せ方が凄い。パルムドールはこのシーンにこそ贈られたのではないかと思われるが、もちろん映画はこの男性医師の性的優位性による治療とハラスメントの近似性をこそ告発しているのだが、演じるヴラド・イヴァノフがまさに怪演であり、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』におけるウィリアム・ハートのように短時間で映画をわが物にしている感がある。
質問=問診により相手を執拗に追い込んでいき、触診により体を硬直させ、指示という名の命令を下し、最後は優しい言葉をかけて去っていく様は、医師という権力者を過激に表象している。この「闇医者」は全くもって「プロフェッショナル」である。そのことが恐ろしい。
そしてその権力の濫用の犠牲者としてオティリアが描かれる。






要約すると、冒頭から強調され、感情的対立の元ともなっている二人の女性の違い、行動する女性と行動しない女性の対比は、一人の男性の存在によって強制的に無効化され、その無効化という暴力が二人の女性を逆説的に、悲しいほどに結び付ける。そのような映画として見ることができるだろう。
そしてもちろん、このホテルでのシーンの直後に恋人の家でのパーティのシーンがあり、ここでもオティリアは動くことも喋ることもできず、体を硬直させることしかできない。

映画はオティリアとガビツァのシーン→オティリアのシーン→オティリアとガビツァのシーン→・・という反復的な構造をとり、その都度オティリアとガビツァの関係性の微細な変化を克明に描写していく。この曖昧な終わり方も、この二人がこのあとどういった関係性になるのか(どうなるのか?という劇的/直接的な意味ではなく、あくまでどのような関係性に至るのか)を観客に想像させるものとして機能している。







カメラワークについて。
手持ちによるパンのようなカメラワークで人物(アナマリア・マリンカ=オティリア)の歩く姿を追うが、あまり深追いせず遠景ショットに移行するものが散見される。
オティリアが恋人の家を出て、タクシーを追いかけるも行ってしまい、そのまま嘔吐してしまうシーンなどが代表的で、その最終的な構図、画面の強度が素晴らしい。
映画には様々なカメラワークがあり、にもかかわらず現代においても「正統な」カメラワークについての議論は絶えず、またこれぞ正統なカメラワークと思わずにはいられない作品も多々あるが、この映画のこのカメラの動き、リズムの心地よさ、絶妙な距離感には感動する。映像があふれる現代において、このカメラワークとの出会いは、個人的には決定的だった。

ファーストショットの、机の上に並べられた雑貨からスタートして、3段階にカメラが遠ざかっていき、空間が広がっていく仕掛けが見事だ。灰皿に置かれたタバコを手にとることで始まるカッチョ良さ。

2016年7月3日日曜日

クリーピー 偽りの隣人

監督:黒沢清

康子(竹内結子)が西野(香川照之)の家に一人で挨拶に行くシーンがある。そしてその次のシーンで高倉(名前不明:西島秀俊)が日野市事件の現場の家を訪れる。その次のシーンで高倉が帰宅すると、カメラはそのままカットを割らずに、やや乱暴なカメラワークで料理中の康子を映し出す。
この一連の流れは重要である。

改めて振り返ってみる。
まず、康子と高倉が日中それぞれ、"家"を訪れる。それぞれのシーンで、門を手前に配して彼/彼女を映したショットが提示される。
どちらのシーンでも、一度門は開けられる。
だが二人とも、その門に入っていくことはない。
ここでは二人とも、「不吉な場所に入る」という決定的な出来事を回避する。二人はまだ無事だ。
帰宅した高倉は、「持続したショット」によって、康子との絆をギリギリ保持している。

一方で、康子が失踪した犬を追いかけると公園で西野がその犬と一緒にいるというシーンがある。このシーンで、西野が「僕と旦那さん、どっちが魅力的ですか」と詰め寄るシーンがあって、ここ、持続したショットで二人が画面におさまるように撮られている。ここでまさに、高倉と康子の脆い絆を、西野が本格的に壊しにかかっているのは明らかだ。

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監督本人の発現によれば、ラストの「叫」は竹内結子のアドリブらしい。それにしてもこのラストは感動的だ。
近年の黒沢清のホラー映画というと、主人公がどこかで「幽霊」なり「異世界」に魅了されて、恐れながらもだんだん近寄ってしまう、という面白さがあった。というかそれが個人的には黒沢ホラーの最も面白い点で、逆に『リアル』では佐藤健がショッキングな光景を見るとイチイチ目を背ける、というのが何ともつまらないと感じた。
『回路』の小雪が最も象徴的だが、何とも不気味に悟ったような笑顔で幽霊に近づいていく姿、というのが黒沢ホラーにおいては観客を「置き去りにする」重要な機能を果たしていた。

本作はどうかというと、西島秀俊や東出昌大(怪演!)は、刑事の"業"によって、ついつい犯罪現場に近づいてしまう、という風に描かれている。また、竹内結子はそのお人よしの性格ゆえなのかわからぬが、知らず知らずに香川照之に近づいてしまう。
で、この近づいてしまうという過程が、これまでの黒沢ホラーに比べると、視覚的には抑えられた表現になっている。あの「思わず見入ってしまう顔」がここにはなく、あくまで内面的な変化を行動によって丹念に繊細に描いている印象がある。
それは、視覚的なインパクトや「観客を置き去りにする」という機能を果たさない一方で、ラストを極めて説得的で感動的なものにする。
つまり、「こっちの日常」から「あっちの非日常」に行ってしまうその契機が繊細に語られる分、そこから戻ってくるその「重み」がしっかりと響いてくる。
行って戻ってきた。行ってしまって、そして戻ってきた。戻ってきたからこそ、行ってしまったことの恐ろしさが衝撃的な残酷さでのしかかってくる。その残酷さに耐えきれず、竹内結子は絶叫する。素晴らしすぎる!

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ドローン撮影はとっても印象的でよかった。

手前と奥に人を配して、中央で出来事を描くという構図が多用されている。
画面の見応えが相当ある。香川照之の初登場シーンなんて、陰→日向→陰と移動して、最高にインパクトがある。









2016年4月30日土曜日

母よ、

監督:ナンニ・モレッティ

虚構と現実が対比される。
それは映画と現実の対比にとどまらず、主人公であるマルゲリータの回想や衝動的空想と現実の対比としても描かれる。

この映画において現実と対比される「虚構たち」はどういった存在として描かれているのだろうか。
たとえば映画内映画、すなわちマルゲリータが撮影している政治映画は、冒頭からスタッフの協調性に欠けており、なかなかうまく進まない。そこにジョン・タトゥーロが入ってくることで、ほとんど撮影現場は崩壊寸前に至る。
つまり虚構の制作は、全くうまくいかない。「アクション!」とともに出現する虚構は、あまりにも早く「ストップ!」してしまう。その都度、マルゲリータは現実に引き戻されてしまう。
虚構の制作が失敗するたびに、苛立たしい現実がゆっくりと彼女の心をかき乱していく。

映画内映画とは別に、彼女の妄想なのか回想なのかわからぬが、いくつかの「虚構」が挿入される。

最初のそれは極めてユニークで、ヴェンダースの映画を上映している映画館に大勢の人が列をつくって待っているというものだ。そこでは彼女に対して苦言を呈する兄が出てくるという面はあるものの、映画全体においてはかなりdreamyで美しい情景として示されているように思われる。だからこのシーンが唐突にカットされて現実場面に戻るとき、これもまた現実に引き戻された、という感覚を覚える。
だがしかし、これ以降の「空想/回想」については、かなり悲観的である。車を壁にぶつけまくるシーンや母親が病院を抜け出してしまうシーンなどがそうである。
また、母親がすでに死んでしまっているという「夢」はマルゲリータの「不安」を反映しているように思われる。記者会見で何人もの記者が同時にしゃべってくるシーンはマルゲリータの「焦燥感」を感じさせるものである。
これらの統一性のなさはそれ自体では問題ではないが、一方でそれほど映画全体を活性化させているわけではなく、やや中途半端に感じられる部分もある。


さて、マルゲリータがその都度連れ戻されてしまう現実、その苛立たしく、重苦しい現実はどのように描かれるのか。
上記の通り、「映画の撮影」がその一端を担う。
ジョン・タトゥーロが現場をひっかきまわしてしまい、現場をコントロールするはずの映画監督は、ここでは完全にコントロールを失ってしまっている。

その他のシーンでも、現実は容赦なく、唐突で無慈悲なやり方で彼女の心をかき乱す。「いつの間にか」家の中が水浸しになっていること、「いつの間にか」母親の容態が急変して気管切開されていること。。

周囲をコントロールする力を失い、なおかつ不条理の速度で進んでいく現実に追いていかれそうになり、自分自身の感情すらコントロールできなくなってしまう。
これは近年ではオリヴィエ・アサイヤスの『夏時間の庭』とも通底するテーマである。『夏時間の庭』においては、死んだ母親の長男であるフレデリックが、自分の周囲のコントロールを失い、つねに後手に回ってしまう存在として描かれている。本作では当然マルゲリータがその存在を引き受けているといえよう。


現実は思ってもみないテンポと速度で、人々を追いていく。しかしながら映画自体はとてもゆっくりとした時間の中で描かれており、その緩やかさに魅了される。
ジョン・タトゥーロのオーバーアクトは、まったく嫌な感じがしない。とっても可笑しい。
素晴らしい映画。