2015年10月8日木曜日

サムシング・ワイルド

監督:ジョナサン・デミ

最高!
まず、タク・フジモトの美しい撮影。メラニー・グリフィスの顔をフロントガラス越しに捉えたいくつかのショットの抒情。さまざまな車、さまざまな衣装を見る楽しさ。
ほとんどのシーンが車を走らせることで展開する。とりわけ序盤の、ジェフ・ダニエルズがレストランから走って逃げ、メラニー・グリフィスが走らせる車にダイブするシーン。そしてこのときのメラニー・グリフィスの手口を利用してレイ・リオッタを出し抜くシーンの何とくだらないこと。
ラストにジェフ・ダニエルズがレイ・リオッタに”勝利”する瞬間の、真正面からの両者のクローズアップの切り返しが、まったくジョナサン・デミらしい素晴らしさ。


2015年9月12日土曜日

レッズ

監督:ウォーレン・ビーティ

素晴らしい。歴史的事象についてその起承転結を決して親切には提示してくれないので、ともするとセリフや場面に置いてかれそうになる部分もあるが、映画にとってそんなことはほとんどどうでも良い。

このダイアン・キートンとウォーレン・ビーティの関係性。このような史実を描いた映画で、これほど充実した男女の描写は稀ではないか。それは常に、各場面において、二人の距離や視線を繊細に演出しているからに他ならない。

・口論の末に立ち去ろうとするも、結局扉の前で立ちつくしてしまう二人を描いたショットは何とも愛らしい。
・一方でキートンも立ち去るときには立ち去るサバサバぶりで、このメリハリのあるキャラクタリゼーションが効いている。
・党内が分裂し、ビーティが扇動者となって党員を地下に集めるシーンでの、キートンに向けられた俯瞰ショットが素晴らしい。
・あるいは、はるばるフィンランドまで行った挙句にビーティに出会うことができなかったキートンを捉えたシンプルで美しい描写。

扉の効果的な使用は最後まで続く。終盤、プラットフォームでキートンがビーティを待つが、ついに列車からビーティが現れずに扉が閉められてしまう瞬間の絶望的な印象があるからこそ、その直後の再会にストレートに心を打たれるだろう。
ビーティの書いた詩の内容を最後まで見せないことも、抒情に流れない重要なポイントだと思う。

ジャック・ニコルソンの役どころが大変素晴らしい。ビーティとキートンの関係性も素晴らしいが、ここにニコルソンが入ってくることで、お互いがお互いを批評しあうより緊張感のある関係性が生まれている。
ビーティは、歴史が動こうとしているときに前衛的な個展の批評に励んでいるキートンを批判し、キートンは、作家としての立場を維持せず活動にのめりこむビーティを非難し、そんなキートンをニコルソンが男と革命の話に興じながら寝たいだけだろうと痛烈に皮肉ってみせる。
それにしても、このジャック・ニコルソンの役柄は面白い。実在の人物だからこそ、という点もあるだろうが、僕はすっかり、ビーティが帰ってきた夜にニコルソンは自殺するものだとばかり思っていた!

2015年9月8日火曜日

クラッシュ(1996)

監督:デヴィッド・クローネンバーグ

「交通事故は破壊的というよりは生産的出来事だ。性的エネルギーの解放だ」←最高に痺れるセリフだ。
高層ビルからハイウェイを見下ろした俯瞰ショット、夜のネオンとカメラのなまめかしい動き、女優達の無表情と恍惚の瞬間の連続性。
心理ではなく、「セックス」や「車の疾走」といった出来事によってつながれた因果が、我々を常日頃から慣れ親しんでいる通常のドラマ構造から”解放”し、極めて不安定でどこへ行くとも知れぬ不気味な語りの流れへと誘惑する。

ジェームズ・スペイダーとホリー・ハンターの出会いの何とエロティックでスリリングなことだろう。
廃車を並べた駐車場での二人の視線の交錯。この時点ではまだ、両者には”ノーマルな”道徳がまとわりついており、スペイダーの表情は事故の加害者としての自責の念を感じさせるものである。しかしホリー・ハンターは初めて両者が病院で出会ったときのようには気が立っておらず、スペイダーとの何気ない会話に興じてくる。
それからスペイダーが彼女を送っていくといって、二人のドライブが始まるわけだが、ここでの、両者の肩のあたりをクローズアップで撮った妄執的と言ってよいショットが何度もインサートされ、徐々に映画が、静かにその旋律を変える。
すると突然車が割り込んできた拍子に、スペイダーがコントロールを失い、危うく再び事故を起こしそうになる。するとホリー・ハンターがスペイダーの手に自身の手を重ね、ハンドルを操作し、安全な場所へと停車させる。何とエロティックな展開。そしてこの「再び事故を起こしそうになった」という「物語上の大事件」を前にして、まるで感情的動揺を見せぬ両者は、やがて車の中で口づけを交わし、体を重ねるだろう。
そのあまりに”不自然な”展開を、我々は何の違和感もなく受け入れてしまう。完ぺきな演出だ!

肌の傷や車体の傷への執着は不気味でじっとりしていながら、映画全体は観念的ではなくむしろ身体的で、不思議な軽やかさすら感じさせる。
キューブリックの遺作が"Fuck"というセリフで終わる2年前に、Fuckで終わる映画が創られている。
事故現場をして「芸術的作品だ」というセリフがあるが、この映画こそまさに芸術だ。


2015年8月23日日曜日

涙するまで、生きる

傑作。それほど凝った演出をしているわけでもなく、オリジナリティや作家性を感じるようなシーンは皆無と言っていいと思うけれど、にもかかわらず、これは正真正銘の傑作だ。真っ正直な映画。

たとえば、風にはためく衣服を撮っているからこそ、地面に落ちている血のついたシャツが存在感を帯びる。
あるいは、内と外をさえぎるガラス窓を経由する丁寧な視線の演出。そしてそれがあればこその、ガラス窓が割られる瞬間の強度(音響が大変すばらしい)。

荒野を歩く二人を捉えたショットはどれもすばらしい。
大雨の描写もすごい迫力だ。

ヴィゴ・モーテンセン演じる元兵隊のフランス人と、一緒に目的地を目指すことになるアルジェリア人モハメドの対比。
たとえば追手が学校まで襲撃に来たときの描写。きわめて機敏に動くモーテンセンに対し、モハメド座って祈るばかりだ。
あるいはモーテンセンが道中で通行人を殺してしまったときの、モハメドの妙な落ち着き。

雨宿りのつもりで入った小屋に屋根がなかった、というエピソードはモーテンセンのリアクションもあってとてもコミカルだが、二人に笑いは起きない。このあたりの”極限感”が見事だと思う。
あるいは二人がやっと笑ったと思ったらゲリラ兵達が突然やってくる、というのもすばらしい演出だ。

洞窟で政府軍が襲撃してくる描写も迫力があるし、モーテンセンが洞窟の外に歩み出る場面もオーソドックスでありながら、これしかない、という印象を受ける。

荒野を歩いた果てに、立ち寄る町。
そのつかの間の休息が、主役二人に潤いを与え、映画自体にも新しい風を吹かせる。そうであればこそ、「生きること」というあまりにシンプルなメッセージが、きわめてヴィヴィッドに観るものに伝わってくる。『エッセンシャル・キリング』とか『最前線物語』のようなすばらしさ。

ラストも大変すばらしい。シンプル・イズ・ベストを地で行く大傑作。


2015年7月12日日曜日

羊たちの沈黙

監督:ジョナサン・デミ

やっぱり傑作。
なんといってもレクター博士の脱走シーン。スキャンダラスでセンセーショナルな描写と、サスペンスとしての正確無比なイメージの構築。まったくもって凄いなぁ。

カメラの位置、カットの割り方、一瞬一瞬が驚きの連続であって、クローズアップやミドルショットが中心であるにもかかわらず、ショットの入り方、カメラの寄り方が独特であるために、空間の広がりという意味では見事な到達をみせているだろう。

キャサリン誘拐シーンの聡明なカメラワークに心を躍らせ、地下壕でのキャサリンとバッファロー・ビルの切り替えしにハッとさせられる。
クラリスの指にふれたレクターの指は、そのまま手錠を器用に外して見せる繊細な指使いの伏線だ。
唐突に挿入される回想も、たった2回しかないという慎ましやかさで、それなのにあのカメラのドリーと曇り空によって強烈な印象を残す。
あらゆる瞬間が驚きというか不意打ちというか。そして気づいたらクライマックスという。

2015年7月5日日曜日

摩天楼を夢みて

監督:ジェームズ・フォーリー

面白い。圧巻の演技合戦とはこれだ。
マッチョイムズについての考察であり、いささか大げさに過ぎる部分はあるにしても、最後まで物凄い説得力だ。照明、カッティング・イン・アクションの冴え。
ジャック・レモンのキャラクターの変遷ぶりにはビックリする。怪演。
アレック・ボールドウィンはウルフ・オブ・ウォールストリート!という感じだ。

2015年7月4日土曜日

きみはいい子

監督:呉美保

尾野真千子が子供の手をとり、マンションの通路を歩いていく。画面の外からは池脇千鶴が子供をあやす楽しそうな声が重なり、子供はその声につられて羨ましそうに後ろを振り返る。きわめて象徴的なショットであり、事態のありようをまっすぐに伝える。
このショットによって、観客は尾野真千子の子供に同情するだろう。もちろんこのショットの前に、すでに尾野真千子に何度も叩かれるシーンが出てくるのですでに同情しているわけだが、このショットはそんな子供の境遇が、池脇千鶴の子供の境遇と残酷なまでに対比される瞬間をとらえており、「こんな暴力的な母親の元に生まれてしまったかわいそうな子」の不運さを、観客はこれでもかと見せつけられる。

にもかかわらず、喫茶店で池脇千鶴に冗談で「ウチの子になる?」と言われた少女は、真剣な顔で尾野真千子に抱き付く。尾野真千子はこの少女の気持ちを受け止めることができず、とっさにトイレに立ってしまう。少女は母親の後を追い、鍵のかかったトイレの前で泣きわめくしかない。
純粋な「母親への愛」だけなら、抱き付くだけでも良い。そうではなく、少女はトイレに立った尾野真千子を不安そうに追いかける。ここには母親の心理を繊細に汲み取りながら何とか良い関係性を維持したいと願う少女の思いがこめられてはいないか。
また、この池脇千鶴の「ウチの子になる?」というセリフは、終盤でも反復されるのだが、どうもこれはわざと言っているわけで、決して軽はずみな気持ち(だけ)で言ったわけでもなさそうである。

つまり、そうした人物達のさまざまな思いや配慮、意図を的確に示唆すること。そのことにこの映画は成功している。

あるいは誰かが誰かを見守っている、気を配っているということ。

無邪気に遊ぶ自分の娘に、尾野真千子が何度も神経質そうに視線を送るその最中に、まさに池脇千鶴が尾野真千子のことに気を配り、何とか彼女を救おうとしていたということ。それが美しい抱擁として結実すること。

あるいは、障害のある息子のことを、老婆が透明なまなざしで見守ってくれていたということ。そのことにハッと気づかされて涙が止まらなくなること。

マンションの通路も印象的だが、学校の廊下も印象的だ。長回しによって出来事が多重的に描かれるシーンがいくつかあり、なかなか優れた効果を発揮している。(教室の外に静かに横移動するカメラ!)

多くのエピソードが消化不良である。たとえばクレームをつける母親達の存在は、決して物語を押し進める存在ではなく、ひたすら社会的な諸条件として提示されるにとどまる。
あるいは高良健吾が生徒たちに出す「宿題」も、妙に偽善臭い。
しかしそれらの消化不良ぶりは同時に、高良健吾という新米教師の無力さとともにある。消化不良な形で過ぎ去ってしまうことが、その都度現実のどこにも進んでいかない諸状況として立ちはだかる。たとえば児童虐待の疑いは、証拠不十分として曖昧にされる。
そうした「物語にすらならぬ絶望的諸条件」を提示しながら、ラストシーンではそれを何とか未消化なまま終わらせずに、物語にしようとする決意が描かれている。
物語にすらならぬ閉塞状況から一歩抜け出して、物語をつくっていこうとすることそれ自体が、物語となっている。
しかしだとすればやっぱり映画は、というかフィクション映画は、その先の、つまり本来の物語を積極的に構築していくべきなのではないかとも思ってしまう。

あと、場面が転換する際の編集。叫び声→叫び声、みたいな音の重ね方を多用していて、良いんだけど、そんなに多用するもんでもないんじゃないか、と思った。ああいうのは一つぐらい、おっ、と思わせる程度に使えば良いのではないか。

しかし、全体としては、ちょっと良すぎなくらいの傑作だと思うがどうか。後から振り返ると、印象的なシーンばかりだ。