2014年9月18日木曜日

孤独な場所で

監督:ニコラス・レイ

オープニングはハンフリー・ボガートの車が走っているところから始まるが、このシーン以来しばらくの間、人物の場所から場所への移動は省略される。最もわかりやすいところでいえば、殺されることになる女性の「帰り道」は大胆にも省略され、我々がその女性が殺されたことを知るのは、警察署でのボガートの事情聴取においてである。
しかし、中盤にさしかかったところで、再び「移動」が描かれる。それは海辺での夕食の際に憤慨したハンフリー・ボガートがそのまま車を走らせ、慌ててグロリア・グレアムがそこに乗り、そのまま車を走らせるシーンだ。そして右折しようとしたところで直進してきた車両と接触、相手の運転手が怒ってボガートの方に来て怒鳴りつけると、そこでボガートのスイッチが入り、あやうく殺しそうになってしまう。
思えばオープニングはボガートのスイッチが入りかけたところで信号が青になって相手の車が走り去ってしまったことで、何事もなく終わり、印象としては「喧嘩っ早いおっさん」程度のものでしかなかったのだが、同じようなシチュエーションが反復され、しかも二回目はエスカレートしてボガートの「本当の姿」が露わになる、という実に巧妙な構成をとっている。全くもって素晴らしい演出。

場所から場所への移動。事件はその間に起こるのだ。

それと。
この映画は、いわゆる夫(や恋人)が実は異常者だった、あるいは異常者なのではないか、という映画で、同じような系統の作品としては、ヒッチコックの『断崖』、ファスビンダーの『マルタ』、シャブロルの『愛の地獄』などがあげられるだろう。それとショーン・ペンの『プレッジ』などもその帰結が印象的だ。
『愛の地獄』や『プレッジ』は、作者の視点が異常者側にあるため、どちらかといえばその妄執ぶりに観客は付き合うことになる。
一方で、『断崖』や『マルタ』などは、女の側から見た男の異常さが強調されるため、観客はその「恐怖」や「不安」に同化するよう意図されている、と言えるかもしれない。

『孤独な場所で』はその中間といった感じで、確かに周りから見たボガートの異常さを強調する演出がとられている(上記のシーンや、あるいは警部とその妻との初めての夕食など)が、一方でこの映画にはアート・スミス演じる長年のマネージャーがいる。
レストランでの騒動で、ボガートがアート・スミスの目を傷つけてしまい、その後トイレで苦い和解をするシーンがある。
このときのアート・スミスが「他に仕事もないし・・・」と言いながら握手を求める所作の面白さ。この二人の関係が、この映画を単なるスリラーでもなく、単なる妄執映画でもなく、重厚な人間ドラマにしていると言って良いだろう。
これは傑作。





2014年9月12日金曜日

フライトゲーム

監督:ジャウマ・コレット・セラ

『アンノウン』は超面白かった。あまり覚えてないが、成りすましの人と大学で対面して同じセリフをまくし立てるとこの振り切れ感とか、あるいは美術館での熟成した演出の手際だとか、ダイアン・クルーガーとか、そもそも『フランティック』じゃないかこれは!という感じが。ついでに言えば車の逆走なんかも笑わせてもらった。
(『アンノウン』はとにかく笑えるアクションなのだ。)

で、『フライト・ゲーム』なのだが、まず冒頭いきなりリーアム・ニーソンがウイスキーを飲んでるのをスローモーションで映してる。
「え、トニスコ?」とびっくりしてると、急にフルショットで引いて、離陸する飛行機をバックにした見事な構図でリーアム・ニーソンがおさまる。良いオープニングだ。
で、そのあとの空港のシーンでは、やたら被写界深度の浅い画面が続く。ニーソンが注意を送る人物にだけフォーカスのあたったよく分かんない画面が続くのだが、これもトニスコなのだろうか?よくわからない。

が、全編見た上で言うなら、この空港のシーンは結局何がしたいのかわからん。
空港ってさ、高い天井に、ランダムに行き交う多国籍の人々がいて、バリバリ仕事できるスッチーがいて、長い動く歩道があるわけじゃん。そういう空間的条件ガン無視で、これかよ。。。
『アンノウン』はホテルや大学の空間造形が冴えてませんでしたっけと。

(このあたりでもうバレバレなのだが、僕はコレット・セラは『アンノウン』しか見てません。すみません。)

さて、まぁ機内でのサスペンスに関して書いてると終わらないので、要所だけ。
まず、乗客がまるで面白くない。ウェス・クレイヴンの『パニック・フライト』のような魅力的な乗客がいない。リーアム・ニーソンの隣に坐るのは、おいおいジュリアン・ムーアかよ。まるで盛り上がらない。あの医者にしても、何もしてないじゃないか!(当たり前だ、分子神経科学者だもの。)

メールのやりとりがひどい。まるで緊張感がない。
「こっちには理由があるぞ」→「どんな理由だ」→「十分な理由だ」
はぁ?みたいな。
あと、TSA本部とのやりとりも全然緊張感がなくて、「うわぁ、これじゃリーアム・ニーソンがテロリストにされちゃうぞ~!」っていうサスペンスがなくて、気づいたら「お前がテロリストだべ?」みたいな。いやぁ。
でもこれも予算不足で本部の撮影ができなかったんだろう。知らないが。


あと、確かに極限状況での疑心暗鬼とそれを打開するアクション、みたいな構図があって、これは脚本の大きな旨味だと思うのだが、これもあまり盛り上がらない。
まずモブ=乗客へのディレクションが中途半端である。誤報ニュースを見ても、あまり騒がない。「不自然」とかいうわけではなく、これでは盛り上がらないだろう。
しかし予算の問題もあるだろうし、乗客があんまり騒ぐと収集つかなくて本当に何もできなくなりそうだし、まぁ良い。
ジュリアン・ムーアは悠長に酒を飲んでるし、そもそもお前みたいなババァが非常事態でも自由気ままでいる女とか演じても少しも魅力的じゃないことに気付け。出演を断れ。
あと、極限状況での疑心暗鬼とそれを打開するアクションとか説得って、さんざん色々やられてきて、それこそ"I believe you."なんてセリフは、本当にアメリカ映画の最大の武器、って感じがするけども、でももっと良い"I believe you."があったのではないか。

で、あと、このシーン、この瞬間、この顔を撮るんだ!っていう意気込みを全く感じないんだよね。
I believe you.にしても、うーんこのクローズアップでいいの?みたいな。

犯人の動機はちょっとなめすぎだと思うし(でもこれは色んな意見がありそう)。

飛行機内のアクション映画ってあまり見たことがないので、ちょっと色々見たい。『フライト・ゲーム』を見ると、なんかやりにくそうだな、という印象があるが。

なんだろうな、もう全体としてはぁ?って感じで、乗客全員死んでいいと思っちまったよ。





2014年8月14日木曜日

サンライズ

監督:F・W・ムルナウ

今更何を言うことがあるのか、という映画だが、要点は、1)展開的にも撮影の観点からも、この映画はまさに"巻き込まれ型"の活劇であること。2)手のアップがあっても良いんじゃないの?ということ。

とりわけ涙なくして見れぬ前半30~40分ぐらいの撮影のスタイル。空間を大きく取り、主要人物を画面手前に配し、奥や背景を強調するそれは、夫とその浮気相手が都会の暮らしを夢想するシーン、路面バスの中の撮影、そして路面バスを降りた直後の撮影で見られる。

路面バスにおいて、特にジャネット・ゲイナーは夫に殺されかけたショックでうまく動けない。路面バスでもじっとうつむいて固まっている。夫の方もどうしていいかわからず、立ちすくむばかりだ。一方で路面バスは快調な速度で街へ向かい、カメラはバスの窓から見える街の景色(が高速で過ぎていく様)を捉える。手前でじっと立ちすくむ二人と、奥の景色の対比がここでは行われている。(照明の当たり方なども影響して)ここではどちらかといえば奥の高速で移動する景色が画面の主役になっている。

路面バスが停車すると、ジャネット・ゲイナーが降りていく。彼女は夫から逃げるのだが、街は車の往来が激しく、うまく道路を渡れない。このときゲイナーは固まっているというよりは、ふらふらしている。ふらー、ふらー、といった感じで、それをカメラがまた滑らかな移動撮影で捉えるのだが、ここでもやはりジャネット・ゲイナー以上に、激しい車の往来が画面の主役となっている。

要するに、この二人は都会の街並みに"巻き込まれ"ているのである。夫と妻の心理ドラマであったはずの映画は、いつしか都会の街の激しさに圧倒され、ただただ"リアクション"することしかできない二人を描くようになる。
そしてこの手前に夫婦、奥に街の光景、という画面構図は二人が入った喫茶店、そして教会のシーンでも踏襲されることになる。
教会の構図。結婚式の模様が左奥で演じられ、右手前に夫婦二人がやってくる。この構図は本当に感動的だ。まるでメアリー・ピックフォードが『雀』の中で見る天使の幻覚のようだ。

そして前半のクライマックスは道路の真ん中で二人が口づけを交わすシーンだろう。
このシーンが感動的なのは、二人がついに画面の主役になるからだ。
街の車の往来にふらふらと"リアクション"するしかなかった二人が、道路(そして画面)の真ん中で口づけを交わし、街を一瞬"掌握"し、街の人々を"リアクション"側に回す。もっと言えば、街を"見て"はおろおろするしかなかった二人が、初めて"見られる"存在となる。その瞬間をこんな風に捉えて見せること。大傑作たるゆえんはここだろう。
その後も農民のダンスによって再び二人は画面の主役になるだろう。


さて、最後に手のアップショットについて書こう。これは主に最初の夫が妻を殺そうとするシーンで、どうせなら夫の手のアップを撮ったらどうか、と思った次第。フリッツ・ラングみたいに。フリッツ・ラングの映画では、よく手のアップがある。『ビッグヒート』の最初のショットとか、『飾窓の女』の殺害シーンとか。この手のアップというのは、どこか運動を心理から解放せしめる効果があるように思えて気に入っている。手自体の"意志"というか。
一応『サンライズ』でも、藁を用意する夫の手のアップがある。

ま、どうでもいい。とにかくこれはやっぱり当たり前のようにめちゃくちゃ傑作。
ジャネット・ゲイナーが見つからなくても泣けないが、見つかると泣ける。つまりゲイナーの姿、笑顔、存在そのものがこの映画では神秘的なまでに泣けてしまう。


2014年6月11日水曜日

『チェンジリング』と『プリズナーズ』

『プリズナーズ』は『チェンジリング』をいやでも想起させる。
わが子の失踪、親と警官の対立、真相の内容。
そう思って、『チェンジリング』を劇場公開以来見た。こんなに胸が痛む映画だったか、、、、いや、確かに非常にキツい、心が壊れそうになる映画であったという記憶はあった。しかしここまで来る映画だったか。。。見終わってしばらく、言葉が出ない、という感じ。
権力システムに呑みこまれながらも必死に戦う女性、という意味では『ブラックブック』のようでもある。
『ブラックブック』のヒロインは、確かにそのアグレッシブさにおいてひたすら待ち続けるアンジェリーナ・ジョリーとは対照的だが、しかし彼女もまた権力システムの犠牲者であり、「悲しみに終わりはないの!?」と泣き叫ぶ姿は、本作で何度も涙を流すアンジェリーナ・ジョリーと相通ずるものがある。

さて、『プリズナーズ』と『チェンジリング』であるが、まず子供の失踪の描き方について。
『チェンジリング』の「失踪の予感」は、以下のように描かれる。
まずアンジーが外出する。それを見送る息子とアンジーのカットバック。そしてそのままアンジーの視線ショット、ではないショットにおいて、しかしアンジーの位置から捉えられる息子のショット。その姿が、手前の柱によって隠れてしまうまで切り取られる。ここですでに「これが最後の二人の視線の交錯なのだ・・・」という予感がする。まったく周到な演出。
あるいはその後、アンジーが乗り遅れてしまう路面電車。これは急いで帰ろうとするアンジーを出世の話を持ちかける上司が映画的に”妨害”することで生じるイベントであるが、この路面電車に乗り遅れる、というささいな出来事が、見事に決定的な出来事として描かれている。
それは要するに、上司が出世話を持ち掛けて妨害する、という「バカバカしい」説話的ご都合主義が、逆にこの出来事を異化せしめている、ということでもある。もちろんアンジーが路面電車を乗り過ごすその描写自体もまったく見事なカット捌きであるが。

以上のように、『チェンジリング』において息子の失踪は、息子が「いなくなってしまう」、あるいは母親と息子が「はなればなれになってしまう」ものとして予感される。
一方で、『プリズナーズ』における失踪の予感は、「誘拐の予感」である。なぜなら『プリズナーズ』の冒頭で強調されるのは、父と息子の関係ではなく、謎のRV車からの子供たちを捉えた視線ショットや、家の玄関を捉えた不吉なショットだからである。ここに『チェンジリング』的などうしようもなく運命的な悲劇の予感はなく、ひたすらサスペンススリラーとしてのそれが描かれていると言ってよい。

ショットの比較としては、これぐらいしか思いつかなかった・・・すまん。。。
ところで、映画研究塾の『チェンジリング』評を見てみると、
http://movie.geocities.jp/dwgw1915/newpage155.html
ここでは物語がねつ造され、閉じられてしまうことに対して、それでも直視し、掘り起こすことがこの映画の主題である、といったことが書かれている。
つまり権力によって、勝手に物語=事件が、閉じられて=解決されてしまうことに抵抗して、真実を見ようと、掘り起こすこと。

この観点から見るなら、『プリズナーズ』における真実の提示は、いささか『チェンジリング』に比べて劣ると言える、かもしれない。
いや別に劣ってない。のだが、『チェンジリング』に合わせて『プリズナーズ』を作り替えるなら、メリッサ・レオの科白によって真相を提示するのは、ちょっと弱い、と言えなくもない。言わないんだけど。
それに、『プリズナーズ』のレビューでも書いたように、この映画における「それでも見る」という主題は『チェンジリング』と同じくらい映画的に心をうつものである。

しかし『チェンジリング』の、あのラスト。。。ちょっとヤバい。。。。こんなヤバかったっけ。。。アンジーは何度も涙を流すけれども、あのラストの涙の流れ方、頬の伝い方、、、カメラのあの、ひたすら固定されたポジションからアンジーを捉えるその厳格さ、過酷さ、、、決して真正面から捉えない。それはあの涙を捉えるためなのだとしても、このまったく動こうとしないカメラはいったい・・・

少年が、「もういい」と警官に止められても、まるで何かに取りつかれたかのように土を掘り続ける、というのも、もう何と言っていいのか・・・


2014年6月6日金曜日

プリズナーズ

監督:ドニ・ヴィルヌーヴ

(ややネタバレ)
ヒュー・ジャックマンとテレンス・ハワードの、それぞれの娘が姿を消す。雨の中を探し回ってきたらしいジャックマンの息子が家に入ってきて、「雨だし、たぶん外にはいないだろう」と告げると、まだ単なるイタズラだと思っているハワードが、「帰ったらお仕置きしないとな」と笑う。カメラはそのままカットを割らずに、リビングに向かう息子をフォローしながらパンすると、ちょうどヒュー・ジャックマンが戻ってきて、「家にいなかった」と告げる。この一言で緊張感が走り、二つの家族が一か所に集まってくる。するとジャックマンの息子が「さっき怪しいRV車がいた」と打ち明け、それだ!という感じで男たちが家を飛び出す。
上記の展開が、ノーカットで撮られる楽しさ。ここの撮影楽しかっただろうなー、というのとは別に、物語が動き出す重要な場面で、このように監督が「ワンショットで撮る」という一工夫を入れてくれている、といううれしさが大きい。だからこそ、物語が走ると同時に、映画も走る。

映画は知的障害の容疑者を拘束して拷問するヒュー・ジャックマンと、捜査を続けるジェイク・ギレンホールを描き分け、時に二人は対峙するわけだが、とりわけジェイク・ギレンホールのパートが素晴らしい。ギレンホールの佇まい、異様なマッチョぶり、オールバックの髪が崩れたときの妙なクールさ、あるいは激高したときの迫力ぶり。ジャックマンのパートが拷問の是非をめぐるめんどくさい道徳バナシに陥りそうになるなか(あまり陥っていないのが素晴らしい。よく耐えてるというか。上から目線だが笑)、ギレンホールの周辺では次々とご都合主義的にイベントが発生し、それに見事な迫力と俊敏さでギレンホールが対処する、その連続であって、つまり痛快アクション映画なのだ。
撮影もそれを見事にサポートする。特にとっさの判断で模倣犯を捕まえる一瞬のアクションとカットさばきが素晴らしい。
「あ、久しぶりにこういう刑事モノ見たな!」という気分にさせてくれる。

あるいは車のフロントドアを突き破る木の枝、壁につきささったハンマーの存在感。

映画の主題は、「耳をすませば」である。冒頭、子供たちがRV車に誰かが乗っていることを察知するのは車内から音楽が聞こえてくるからだ。閉じ込められたものの叫び、そしてラスト。
こうした目に見えない領域からのかすかな音に耳をすませる、というテーマ性が、この物語上のミステリーの核心部分と共鳴しているあたりに、作家としての野心を感じるが、しかしこの映画は「耳をすませる」以上に「目をこらす」映画だ。僕はラストのギレンホールの車の疾走のことを言っているのだが、ここでは直前の銃撃戦で頭部を負傷したために視界がかすんでしまったギレンホールが、それでも子供を救うために、懸命に目をこらして運転をするという感動的な描写がなされている。彼が寸でのところで発見する”Emergency”の文字の輝きは一体なんだ!

目をこらして、懸命に前を見つめること。

僕は今まで、「見ること」なんて言われても胡散臭い映画史的教義としか思っていなかった。”見ること”というコトバに反応してるだけじゃないか、と。
しかし違った。
見る姿、見ようとする姿、そこには純粋なエモーションがあった。ジェイク・ギレンホールがそれを教えてくれた。ありがとう、ギレンホール。

それとその直前の、ギレンホールが子供を抱え上げて倉庫から連れ出すショットがむちゃくちゃ良い。
この映画、本当に良いよ。保証するわ。



※時々監督はロジャー・ディーキンスなのではないか、というショットが随所にある。たとえば最初にジェイク・ギレンホールがRV車を発見する場面の光の感じだとか、あるいは子供たちの無事を祈って町の人々が蝋燭を持って集まってくる場面の光の配置だとか、あるいはモーターボートからのクソ無意味な撮影。

2014年6月4日水曜日

不安

監督:ロベルト・ロッセリーニ

なんとなく敬遠してたロッセリーニ。かなり前に『無防備都市』や『ドイツ零年』を見て、いや見ると同時にネオレアリズモなるものの「お勉強」をして、「凝視すること」とか調子に乗って舞い上がってたのが懐かしい。今思えば、あのとき僕はあの映画群を見ていなかったに違いない。もう一度見直さなくては、と思う。
それぐらいにこの『不安』は素晴らしい。無駄なカットが一つもないにも関わらず、そこには物語の枠に収まらぬ余剰があふれている。すげー。

ショット数は全部で150~160ぐらいなんじゃないかと思うが(75分だから、2ショット/分)、どうしてこんなにも少ないかといえば、二人の人物が室内や屋外で話すシーンがほとんどワンショットで撮られているからだ。
終盤のレストランでの大胆なクローズアップの応酬をのぞけば、切り返しはほとんどなく、カメラは動き回る人物たちを見事にフレームに収める。その配置、照明の設計。月の光に美しく照らされたイングリッド・バーグマンは即座に落ち着かないそぶりで歩き、やがて逆光のシルエットが浮かび上がる。

あるいは車や人物の往来をとらえたショット。バーグマンが家から会社に向けて車を走らせる。その走り出した車をとらえたフィックスショットは、明らかに過剰に持続する。物語のつなぎとして要請されただけに過ぎない車を走らせるショットなのに、車がスーッと向こうの方に消えていくまで、カットが割られない。「ああ、なんか車が走るのっていいね。このまま撮ってたいね。」と言っているようだ。知らんけど。しかしこちらとしても、「このまま見てたいっす」である。

理屈はわかんけれども、対象を撮る、それを見る、という喜びが、この映画には満ちている。満ちていない映画と満ちている映画の違いなどまったくわからないけれども。

ところで音楽会のシーンは素晴らしい。脅迫する女が音楽会にやってきて、夫のいない間にバーグマンのところにやってきて指輪を取っていってしまう、というまぁそれほど大した場面ではないのだが、この場面で時折インサートされる音楽会のピアニストの姿や観客の拍手する様子をとらえたショットがことごとく効果的なのだ。というか、こんな地味なシーンにもかかわらず、これぞ映画だ!と思わずにはいられないシーンである、これは。知らんけど。

というのも、このインサートされるショット群はすべてロングショットというか、単に遠景から「様子を捉えた」ショットである。ピアニストの顔はまったくわからない。ただ人が舞台で、演奏して、演奏を終えて、あいさつして、というプロセスを撮っているに過ぎない。ピアニストと観客は、単なる背景、装置であるわけだ。
しかしこの装置、プロセスをとらえたショットが、バーグマンと恐喝女のやり取りに「重ね合わされる」。すると途端にこのピアニストと観客達の一連のインサートショットは、バーグマンを取り残してどんどん進行しまう時間と空間を表象し始めるのだ。ヒッチコック的な手触りだとも言えるが、このように「主人公が世界(ここでは音楽会)から無視されること、置いてかれること、主人公の心理や主人公が紡ぐ物語とは別の力学で、世界が勝手に動いてしまうこと」、これだ。『三つ数えろ』、『コンテイジョン』、『眠れる美女』などなど。たわごとか。


さて、僕が最も感動したのは、子供たちの家をバーグマン夫婦が訪れるシーンだ。
ベンツのボンネットに据えられた固定カメラが、車が走る道筋をとらえていると、その先に家があって、子供たちがいて、というこの幸福なワンショット。そしてその後のバーグマンと娘を手前に、夫と息子を奥に配置した縦の構図。この縦の構図に至るまでの人物の流れるような動き。なんという手さばきだろう。
さらにラストでは、上記した固定カメラがとらえる幸福なワンショットが反復される。素晴らしい。
車がたどる道筋をとらえること。これがこの映画の、幸せの形式なのだ。身近な幸せに戻ること。


2014年4月29日火曜日

Surface!

Surfaceでメールしながら映画見るとは何事だ!的な記事を以前書いたが、しかし僕はメールしながらyoutubeで音楽を聴くし、Twitterしながら本とか読んじゃう。だからといって、そもそも音楽と映画と本をいっしょくたに議論する必要はないと思うんだけど。
要するに、自分の感性は自分で守ろう、ということでしかない。
もちろん自分の感性という絶えず外部環境にさらされることで、避けがたく変化していくものだとは思う。でもこれまた同じで、「だからといって感性が変わること全部を肯定する」わけではないのだ。
自分がおかしいと思う変化はできるだけ変化しないようにする。それは例えば映画を見るときはメールしないとかってことだ。たとえばね。