2012年11月14日水曜日

フランティック

監督:ロマン・ポランスキー

突然失踪した妻を探す物語でありながら、ことさらにサスペンスを盛り立てることなく、あくまで地味に、所々で細部を丁寧に描くあたりに好感が持てる。決して心拍数は上がらないのだけど、いつまでも飽きない。
ホテルに到着したハリソン・フォードと妻の可笑しいやりとりから、フォードがシャワーを浴びるワンショット内でたちまちに不吉な予感を起こさせる見事な手腕。デデという男の死体現場の猫の扱いや、ハリソン・フォードが屋根の上を歩くシーンの処理もいい(アタッシュケースが開いて中のものが全部出てしまうとこ、あるいはハリソン・フォードの靴がスーっと滑っていくショットね)。
妻が失踪した直後の、大使館で行列に並ばされたり、警察で全然まともに取り合ってもらえなかったり、フランス語がわかんなかったりという、フォードの徒労感の描写がとっても上手い。
あるいはエマニュエル・セニエ演じるミシェルのパンクなキャラクタりゼーションも楽しい。
喫茶店のスプレー噴射、クラブでの妖艶な踊り、少しずついろんな表情を全編を通して魅せてくれる。
傑作でしょう。

2012年11月13日火曜日

リリィ

監督:クロード・ミレール

この全くもって形容し難い、しかし完璧に見る者を熱狂させる、底抜けの、ミステリアスで挑発的な魅力はいったい何なのだ。
湖、渡り鳥、風、森、これらの自然を、決して審美的ではなく、シャープに、スクリーンに突きつけるように切り取ったオープニングのイメージ、そこから続く唐突なリュディヴィーヌ・サニエの裸体の描写には、そう、極上のサスペンスの香りがぷんぷんと漂う。

ミレールの2000年代以降の作品は、あの最強の傑作『ある秘密』しか見ていないが、しかしこの冒頭の切れ味鋭いイメージの数々、そして前半から中盤にかけて繰り広げられる怒涛の不信と情事の物語には、天才クロード・ミレールの、あの鮮烈さが、はっきりと刻印されている。

現代の映画らしく、怒涛のスピードで次々に生起しては消滅していってしまうイメージの数々。人々がふっと作業を止めて宙を見つめるいくつかのショット、ジュリアンが母親の部屋にやってきた時のフルショット、海辺でリリィが木の影に隠れるようにして去っていくショットのなんと忘れがたい美しさ、危うさ!

この映画全体が、クロード・ミレールの確信犯的な挑発だと思う。アントニオーニの『欲望』のように、形式と内容が一体化している(アントニオーニが『欲望』についてそう言ってたよん)。

何も解決されぬまま放り出された前半部、そして唐突に時間がジャンプして始まり、それぞれの人生を再開させた人々が、再び出会い、しかしお互いがいったい何を考えているのか全くわからず、ひたすらそのミステリアスな視線、表情、そして映画のフォルムがサスペンスを醸成し、いったいどこに向かっているのかわからないというような印象を持たせる後半部、そしてラスト。

この万華鏡のような、スキャンダラスなラストシークエンスを見るにあたって、私たちは「前半はいったい何だったのか」と思わずにはいられない。何だったのか、正確に言えば、「あれは現実だったのか」、いやもっと言おう、「現実とは何なのか」、そう思わずにはいられない。
リュディヴィーヌ・サニエがセットの上を歩く姿に、CGのイメージ映像がかぶさるとき、その快い不安は頂点に達することだろう。
映画は何かを仄めかし、そして何も解決しないまま、終わる。たぶん、この人物達もまた、何も解決することを求めぬまま、何も無かったかのように別れていくのではないか。
だが決して何も無かったなどとは言わせぬ。彼らは崖の上で、あと一歩で落ちるところまで来ていた。結果として彼らは落ちなかっただけだが、しかし彼らは間違いなく崖の上にいた。あと一歩ですべてが壊れそうなところにいた。それを事件と言わずして何と言おうか!
だからこのラストは、ハッピーな表情をした究極のビターエンドだ。


(追記)
この映画全体の構造をわかったうえで再見してみると、意外な事に後半部が平板に見えてしまう。
というより、良いカットと悪いカットが混在していて、そういう意味では冷静に自分の中でこの作品を位置づけることができたかもしれない。だが例えばこの映画をスクリーンで見たら、おそらくまた違った印象にもなるだろう。
後半部の演出の意図はとても難しいが、シモン(ジャンピエール・マリー)が別荘のセットで、トイレに行くシーンが秀逸だな、と。
「セットも本物と同じとこにトイレがあるのか?」と聞いてそこに行ってみると、スタッフ同士が情事に及んでいるというシニカルなエピソード(まさに愛憎入り混じる屋敷だ(笑))、そしてその後セットの外のトイレに行くシモンを後ろから逆光で捉えたショットがとても良い。
セットでの撮影シーンは全体的に照明が平板であるだけに(しかしこれも前半部とのコントラストを強調しているのかもしれない)、この逆光のショットはとても印象に残る。

あるいは、前半部はカッティング・イン・アクション、あるいは人が通りすぎる瞬間にカットを割って寄る、といった技巧的な編集に加え、カメラワークは極めてなめらかな曲線を描いているのに対し、後半部の印象はまるで異なる。というのも、後半部は車に乗って電話をしているリュディヴィーヌ・サニエのシーンから始まり、これがフィックスのジャンプカットが多用された非常にザクザクとしたイメージであり、続いてサニエが、ブリスとマドの二人に偶然遭遇するシーンはワンショットの直線的なカメラワークで、丁度縦に歩くサニエと、横に歩く二人(ブリス、マド)が直角に交わる様が描かれる。さらに続いて、サニエが二人と別れてからおもむろに電話をかけるシーンも直線的な長回しで撮られている。









2012年11月11日日曜日

「卑しい動機」と価値の再発見

 しばらく前にTwitter内で、カンボジアの支援をする(いわゆる)意識の高い学生を揶揄するツイートが見られ、それが(いわゆる)アルファ・ツイッタラーの間で盛り上がるというケースがありましたね。
 これらの言説の内容を私なりに要約すると、「彼らは、日本にも貧困はあるのに、カンボジアの支援を優先させる。それは、彼らが貧困に同情してるんじゃなくて、『海外支援してる僕たち』に酔っているからだ。マジ気に食わん」という事になるかと思います。
 
 なるほど、そのような心性はあるのかもしれません。かく言う私も、国境なき医師団で働いてみたい、とか、国連で働いてみたい、などしばしば思うのですが、要するに海外を股にかけて仕事する自分の姿を描いて酔っているという解釈も可能でしょう。

 つまり、その動機が「卑しい」という事が、しばしば揶揄/非難の的になるわけです。

 同じような事例はいくらでもあると思います。
 例えば「人と違うことをする」、「人があまりやっていない事をする」ことによって目立とうとすること。みんながAをやっているからBをやる、というのは、実はBそのものに価値を見出しているとは言えないわけですね。つまりもしみんながBをやっていたら、その人はAを選ぶことになるからです。
 それ自体に、普遍的な価値を見出すことなく、行動や立ち位置を選択するという意味において、その選択の動機は「卑しい」と呼ぶことができるかと思います。

 私が言いたいのは、それでいいじゃないか、という事と、しかしその次の段階こそが重要なのではないか、という事です。
 
 過剰な自己承認欲求が暴走して、確固たる核を持たない状態で行動や身振りを選択してしまうということはいくらでもあります。
 そしてそうした「自己承認欲求」が露骨であるとき、人はそれに辟易し、揶揄/非難をするのでしょう。
 私はそのこと=卑しい動機によって行動を選択すること自体にはさほど問題があるとは思いません。
 私が問題だと思うのは、承認欲求に溺れてしまうことです。つまり、承認欲求を満たそうとして選択した行動から、結果として承認欲求以外のものを得ずに終わってしまうことです。
 もちろん、日常のささいな行為はしばしば、ただひたすら承認されるために行われ、承認され次第恍惚とともに終わるわけで、それをいちいち問題にしようとは思いません。
 
 しかし、「カンボジアの支援」レベルの話になってくると、重要な問題だと思います。
 
 動機が卑しかろうが問題ではないわけです。重要なのはその先ですね。
 実際の経験を通して、その行動や身振りに内在する普遍的な価値をいかに発見することができるか、あるいは自らの卑しい動機によって始めた行動の中に、「卑しい動機を満たす道具」とは別の意味を見出し、再解釈すること、これがとても大事なことだと思います。
 なぜならそのような再解釈、価値の再発見を通じて、もしかしたら「カンボジアの支援」以上に価値のあることが発見されるかもしれないわけです。そしてそうして発見されたものは、もしかしたら自己承認を全く満たさないものかもしれない。でもそれが成長ということなのかもしれないですね。

 もちろん「カンボジアの支援」のようなものにとどまらず、例えば趣味・文化の世界でも言えることだと思います。
 「趣味って人と違うからやって承認欲求満たすためにやるんだろ?」というニヒルな言説はよく見られますが、おそらく導入としてはそんなものかもしれません。
 しかし、そうした「卑しい動機」によって始めた趣味・文化活動を通じて、その趣味・文化活動に内在する普遍的な価値というものを発見することができれば、そのような動機の「卑しさ」など、さして問題ではないでしょう。

 あるいは学生として一番身近な例として、試験勉強があると思います。
 試験に落ちたくないから勉強する、しかし結果的にその科目の面白さを発見する、というプロセスは、、、まぁ最近あんまり無いですね・・・orz
 
 
 私は上記したような、(様々な動機から)行動をする→その行動そのものを再解釈し、本質を発見する→次の段階に進む、というプロセス、そしてそうしたプロセスを経験できるような社会的な仕掛けが重要だと思っています。それはTwitterのような言説空間のレベルでも言えると思います。
 「結局自己承認欲求満たしたいだけ」というような揶揄・非難は、上記したような本当に重要なプロセスの経験を阻害してしまうことになると思います。
 であれば、「承認欲求丸出し」の行動に対し、それを一応肯定しつつ、しかしその先にあるプロセスに気づかせてあげる/促してあげるというような態度が重要で、そうした態度/空気を通じて社会の多様性や(文化的思想的)豊かさは生まれるのではないかと考えています。 



2012年11月9日金曜日

孤独な声

監督:アレクサンドル・ソクーロフ

ソクーロフの処女長編。ソクーロフという人は本当にとんでもない天才だな、とつくづく思う。
映画において、男と女を描く、しかも濃密に。これはあらゆる映画にとって大切なことだ。あるいは映画を見る喜びのほとんどはここに集約されると言っても過言ではない。いや過言だけど。

木々の隙間からのぞく太陽の光線を捉えたショットに続いて、カメラは唐突に靴を履いた足をとらえる。それが誰の足なのかわからない。それから今度はカメラが引くと、ニキータ(男)の目の前に一人の女性が立っているのがわかる。なるほど、この女性の足だったのだ。そしてこの、なんとも形容のし難い、不思議な魅力を持った顔立ちの女性が、「こんにちは、私のこと覚えている?」と尋ねると、今度は反対側から捉えた、つまり女性の方向からニキータを捉えたショットに、オーバーラップで切り替わり、ここでもかなりの間を置いて「覚えています」とニキータがつぶやく。
この時間の流れ。
考えてみれば、ものすごい不自然なやりとりだ。まるでスローモーションの世界のように、二人はゆっくりと間をとって、お互いにぼそっとだけ声を発する。この時間の「過剰な緩やかさ」をオーバーラップの切り返しがさらに助長する。このあまりに不自然きわまりない、常識はずれの時間の流れが、しかしそれが一体どうして―いや、むしろこれこそが映画が持つ恐ろしいまでの力だが、この時間の流れが愛おしくて仕方がない!

我々の日常とは全く異次元の存在と時間が、突然立ち現れること。

あるいは、本作において、上記のシーンと同じくらい好きなシーンを上げるならば、リューバ(女)が寝ているところに、リューバの友人がやってくるとこだろう。
カメラは窓際にセットされ、部屋の奥でリューバが眠っている。で、そのそばでニキータがアルバムを眺めているのだけど、友人が画面の外からリューバを呼びかけると、リューバが起き上がって、窓までやってくる。だから当然、この持続したフィックスショットは、リューバのクローズアップに移行するわけだ。このクローズアップが本当に素晴らしい。リューバの幸福そうな表情に、優しく日光があたっている。素晴らしい。
そしてそこから一気にカメラが部屋の奥の暖炉の前に移り、手前に暖炉に薪をくべるニキータ、奥に友人と楽しそうに会話するリューバの姿が捉えられる。この光のコントラストの素晴らしさ!
もう本当に天才としか言い様がない。

2012年11月7日水曜日

ジャケット

監督:ジョン・メイブリー

予算の制約が(多分)ある中で、しかもタイム・スリップものでありながら、とにかく地味に、しかしかなり丁寧に演出してある。

あるいはタイムスリップものでありながら、タイムスリップ先の舞台が田舎町であり、しかもせっかくタイムスリップというアクロバットな移動を果たしてみせるエイドリアン・ブロディは、まるでただの放浪者のように、なんともなしに現れ、そして突然何の痕跡もなく消える。この地味さが、映画全体を引き締めているといってもいいかもしれない。


考えてみればこれはクリスマスを舞台にした映画なのだ。しかしどちらの年のクリスマスも、方や1992年は精神病院が舞台だし、2007年は喫茶店がポツンとあるような辺鄙な田舎町に、出てくるのはクリスマス嫌いの独り身のやつれた女だ。重ねてこの地味さを賞賛したい(笑)
ブロディが二回目にタイムスリップしたときに、キーラ・ナイトレイと再会するシーンの、なんて普通なこと(笑)
決して凡庸なのではなく、正しく「普通」である。
ああ、またこの二人が出会った、というごくごくありふれた喜び。



オーソドックスな画面構成でありながら、照明はしっかりしているし、あるいはキーラ・ナイトレイとエイドリアン・ブロディの距離の縮まり方、そして離れ方も素晴らしい。キッチンで酒を注ぐキーラ・ナイトレイがブロディの方を横目で見ながら首を傾ける仕草が、やたらミステリアスで、この時彼女がいったい何を考えているのか全然わからないのだが、それゆえに良いシーンだ。
あるいはキーラ・ナイトレイはタバコが良く似合う。



終盤の実家に行くシーンが少し感傷的と言えば感傷的だが、しかしジーンがドア越しに言葉もなくブロディを見送るショットなんて素晴らしいじゃないか。

ラストはトニー・スコット『デジャヴ』を思わせるラストだけど、もちろん『デジャヴ』のようなあんなエモーションは無いんだけど(※)、バックの夕陽がだんだん画面全体に広がっていく演出は、この映画にしては派手で、そしてその「慎ましい派手さ」ゆえに非常に良いラストになってる。


※それはおそらく、同じタイムスリップものである『デジャヴ』が同時に「人と人が出会うこと」それ自体をテーマにしていたからだろう。『デジャヴ』の有名なスクリーン越しの切り返しのような派手な演出に対し、この映画はそんな事しない。なぜならこの映画における出会いは徹底的に「普通」だからだ。
3回目に二人が出会うシーンのカメラワークなんて素晴らしい。

2012年11月3日土曜日

召使

監督:ジョセフ・ロージー

なんちゅー怪作(笑)

オープニング、枯れ木が冬の香りをしたためる美しい通りを映したカメラは、緩やかに反転して、こちらに歩いてくるダーク・ボガードを捉え、そのまま彼を追う。ああ、極めてシンプルでありながら、まさに「映画の時間」がここに定着している。このままこの世界にどっぷりと浸かりたい。
ダーク・ボガードが家に入っていく一連のシークエンスの何と無駄なカメラワーク(笑)しかしイチイチがカッコいい。美しい、流麗なカメラワークだ。

流麗なカメラワークは、ジェームズ・フォックスがバーでウェンディ・クレイグを口説くシーンでも発揮される事だろう。そうしてあまりにも「当然のように」ウェンディ・クレイグを口説き落としたジェームズ・フォックスが、そのウェンディと一夜を共にするシーンは、まず外側から邸宅を捉え、ゆっくり下降する美しい雪景色を挟んで、全く同じように下降するカメラワークでもって、床に寝そべる二人を捉える。ああ、何て素晴らしい呼吸、リズム。

ダーク・ボガード、ジェームズ・フォックス、ウェンディ・クレイグが邸宅で一同に会するあたりから、映画のリズムが変わる。それは鏡を介して三人を捉えた歪みまくったショットで予感されるだろう。
そして考えてみれば、我々はこのダーク・ボガード演じる召使いの素性をまるで知らない事に気づく。待て、考えてみればそもそもこのDVDはサスペンス・コーナーに置いてあったのではなかったか。という事は、このダーク・ボガードは何かを企んでいるのだろうか。。。

あるいは、公衆電話でのダーク・ボガードは、まるで召使いとは思えぬツワモノの風情だ。
公衆電話を待つ女たちに「ビッチ!」とまで吐き捨てる。


関係ないが、ジェームズ・フォックスとウェンディ・クレイグが、富豪の老夫婦の家で会話をするシーン。「ポンチョって?」、「南米のカウボーイだけど?」、「え、ポンチョって上につけるやつじゃなくて?」、「は?何の?」、「だからカウボーイの」、「それはマントでしょ」、「ああそうなの」、、、、何だこの会話は(笑)
だがこのわっけのわからない会話も、最初に4人を捉えたフルショット、次いでお互いの夫婦を捉えたローアングルのショットが交互が続くあたりで、見事に引き込まれてしまう。



さて、サラ・マイルズが新たにやってくるシーンでは、ジェームズ・フォックスとウェンディ・クレイグのレストランでの食事とその周辺の客達の様子を映したショットと、ダーク・ボガードがサラ・マイルズを迎えてタクシーに乗るショットが平行モンタージュで映されるわけだが、もうこれも何で平行モンタージュなのかまるでわからぬ。
しかしレストランでの演出の素晴らしさには舌を巻く。フォックス=クレイグの会話を中心としながらも(この会話も意味不明に深刻(笑))、彼らを奥で捉えながら周辺の客の会話も見せてくれる。別にストーリー上は何の意味もないこれらの人々であるが、いやいや、こういうのを見せてくれるのが良質な映画というものだ。隣り合って座るオッサンとアイリッシュのコンビなんて最高じゃないか。


さてさて、サラ・マイルズとジェームズ・フォックスが恋に落ちるシーンの何たる悪ふざけっぷり!ポタポタたれる水道水の音が部屋に響き渡り、仮にもメイドであるマイルズが、「暑いわ~」とか言いながら机の上に座ってセクシーポーズを取るんだから、もう何でもアリっすね!

この後のシーンで、ダーク・ボガードが酒を買いにいってる間にフォックスとマイルズが行為に及ぶシーンがあるが、ここのシーン、廊下で抱き合う二人の姿が、画面奥の廊下の鏡に映り込み、手前には二人の重なり合った手が壁際からはみ出て見える。このショットが絶品。この映画で一番好きなショットだ。

そろそろ書くのも面倒になってきた。なぜって、これはもう見てもらうしかないからだ。最後の方はどこまで本気なんだかわからないのだが、しかしハチャメチャに面白い。
個性豊かな俳優、美しい照明、なめらかなカメラワーク、そしてムーディなジャズがあれば、何をしても映画になるのだ、という高らかな宣言。いや、素晴らしい。






2012年11月2日金曜日

なまいきシャルロット

監督:クロード・ミレール

13歳を迎え、大人の世界にあこがれるシャルロット。
映画はシャルロットの前に現れる「大人の世界」を丁寧に描いて見せる。
更衣室にやってくる全裸の女のエロティックさ、あるいは初めてクララのステージ映像を目撃するシャルロットの描写の小気味良さ。ホールから聞こえてくるクラシック音楽につられて、そしてその曲に調子を合わせて歩くシャルロット(これが終盤のコンサートのシーンと同期してるんだね)、そしてテレビ画面越しに目が合うクララとシャルロット。

そしてシャルロットは、それらの世界と接触しては期待に胸を膨らませ、日常から脱出したいと強く願う。
しかしそれは、しょせんは思春期の、つかの間の「非日常感」に過ぎず、決して非日常そのものは彼女の前にはやってこない。
結局シャルロットとジャンはセックスをしないのだし、あるいはシャルロットがランプで殴ったジャンは死ぬわけでもなく、けろっとして電車に乗って去っていくのだし、またルルも鼻血を出して倒れたところで別に死ぬわけでもない。そして当然、シャルロットがクララの付き人になるわけでもない。

あらゆる「非日常の予感」は、「思春期」という特権的な時間の中で生起しては何事もなかったかのように消滅する。
うむ、しょせんは人生の通過点だ。

しかしそれでもこの映画は、そうした「事件の予感」を、そしてその予感に立ち会った一人の少女の無垢な感情を、しっかりと鮮やかに切り取ってみせる。
13歳になり、日常に嫌気がさし、大人の世界、ゴージャスな世界にあこがれを抱き始めて生き急ぐ少女の物語でありながら、その語りのスピードは驚くほどゆっくりで、そこにある緩やかな時間の流れをしっかりと捉えてみせるわけだ。

いさかいの後、レオ―ヌ、シャルロット、ルルが一緒になって木の下で昼寝をする様を映したショットの何たる優しさ。
あるいはシャルロットの父親とレオーヌの関係の描写も、二人が挨拶したり、手を振り合うだけで、こんなにも快い気分になってしまうのだから、つくづく映画とは不思議なものだ。
初めてシャルロットがクララと出会ったときに、ここしかないというタイミングでかかるテーマソングの素晴らしさ。

「しょせんは人生の通過点に過ぎぬ」と成熟ぶってメタに立ち回るのではなく、そうした通過点にすぎない「どうでもいい」時間の一瞬一瞬を、映画として鮮やかに、美しく切り取ってみせること。メタに立ち回るのではなく、熱狂すること。
これだ。映画とは思春期だ。