監督:シドニー・ポラック
渋い映画だなー。それはレッドフォードとフェイ・ダナウェイの関係性の、(映画としては)極めて禁欲的な描写にも表れているだろう。そうでありながら、二人がつかの間結ばれるシーンでは、フェイ・ダナウェイがボロボロ涙を流す。
あるいは翌朝の二人のやり取りもとても楽しい。
例えばボニー&クライドの二人に比べれば圧倒的に控えめでありながら、しかしあの二人以上にお互いの波長が同期している事が画面に露呈している。
それはフェイ・ダナウェイのどこかよそよそしくありながら、衝動的に感情を発露するキャラクター造型によるところが大きいのではないか。
さらに言えば、これは冒頭の惨劇以降、レッドフォードが徐々に「見えざる敵」に追い詰められていく様を手際よく描いたからこそ、二人が結ばれるその物語に惹かれるのだろう。
例えば、その冒頭の惨劇や、あるいは迎えにきた友人が撃たれるシーンなど、シンプルに演出しつつも、徹底して銃口の無機質なアップカットを入れるあたりの徹底した演出も見られ、このあたりが功を奏しているのではないか。
このように二人の関係性を十分に描いているからこそ、ヒギンスを誘拐するシークエンスに味が出る。
2012年10月11日木曜日
2012年10月1日月曜日
風にそよぐ草
監督:アラン・レネ
これは素晴らしい。財布を拾ったことをきっかけに恋に落ちる(?)中年の男女、という極めて単純な「あらすじ」でありながら、あらゆるショットで観客を驚かせてくれる、ほとんど魔法のような映画だと言っていい。
とりわけ終盤、マグリッドがジョルジュの家にやってくるシークエンスでは、主要人物4人が勢ぞろいするわけだが、このシーンの変てこぶりにはぶったまげるしかない(笑)いったいどうしてこんなムチャクチャな事をやっておいて、映画が成立しちゃうんだろう。でも成立してしまうのだ、その理由を全て把握することはとてもできないが、しかし例えば、車で新聞を広げた途端パッと対向車のライトが差し込んできて、すると俯瞰のショットに移行して、再びカメラが車内を映し、そうして突然の愛撫が始まるという一連の演出の素晴らしさがその理由の一つであることは間違いないだろう。
あるいは前半部のハイライトと言ってもいい、家族そろっての食事シーン。ゆらゆらと揺れるカメラがワンショットで家の中をぐるぐる移動しながら、家族がソファーで話したり、かと思うとジョルジュが肉を焼いて、それからみんなが着席して肉を食べる、という一連の動きを軽やかに捉える様は、まさに映画を見る喜びに満ち溢れている。なぜなら、これこそが映画だからだ。つまり、言葉で説明するには何て事のないシーン、ごくありふれた家族の食事の光景が、カメラと照明と役者の動きによって、こんなにも素敵なシーンになってしまうこと、それを目撃すること、そうして僕たちの人生が豊かになること、それが映画の魔法だ。
食事の最中にマグリットから電話がかかってきて、ジョルジュが受話器をとり、話をするわけだが、これをカメラはどのように捉えるかと言えば、画面手前だけにフォーカスを当てて、手前で電話をするジョルジュ(とマグリット)と、奥で食事をする家族たちの間の空間的な差異を際立たせているのだ。このような「圧倒的に正しい」演出には思わず「そうそう!こうだよね!」と頷くほかあるまい。
あるいは二人がついに顔を合わせるシークエンスでは、「映画を見たあとでは何もかもが自然に起こる」という素晴らしいナレーションに続いて、二人が出会い、そしてカフェに入っていく。すると画面奥に「Cinema」と書かれた映画館の看板が映り込む。こんなに泣ける演出があるだろうか。
クロード・ミレール、クロード・シャブロルら同様、老いてますます瑞々しさを発揮する魔術師アラン・レネの、怒涛の傑作である。
これは素晴らしい。財布を拾ったことをきっかけに恋に落ちる(?)中年の男女、という極めて単純な「あらすじ」でありながら、あらゆるショットで観客を驚かせてくれる、ほとんど魔法のような映画だと言っていい。
とりわけ終盤、マグリッドがジョルジュの家にやってくるシークエンスでは、主要人物4人が勢ぞろいするわけだが、このシーンの変てこぶりにはぶったまげるしかない(笑)いったいどうしてこんなムチャクチャな事をやっておいて、映画が成立しちゃうんだろう。でも成立してしまうのだ、その理由を全て把握することはとてもできないが、しかし例えば、車で新聞を広げた途端パッと対向車のライトが差し込んできて、すると俯瞰のショットに移行して、再びカメラが車内を映し、そうして突然の愛撫が始まるという一連の演出の素晴らしさがその理由の一つであることは間違いないだろう。
あるいは前半部のハイライトと言ってもいい、家族そろっての食事シーン。ゆらゆらと揺れるカメラがワンショットで家の中をぐるぐる移動しながら、家族がソファーで話したり、かと思うとジョルジュが肉を焼いて、それからみんなが着席して肉を食べる、という一連の動きを軽やかに捉える様は、まさに映画を見る喜びに満ち溢れている。なぜなら、これこそが映画だからだ。つまり、言葉で説明するには何て事のないシーン、ごくありふれた家族の食事の光景が、カメラと照明と役者の動きによって、こんなにも素敵なシーンになってしまうこと、それを目撃すること、そうして僕たちの人生が豊かになること、それが映画の魔法だ。
食事の最中にマグリットから電話がかかってきて、ジョルジュが受話器をとり、話をするわけだが、これをカメラはどのように捉えるかと言えば、画面手前だけにフォーカスを当てて、手前で電話をするジョルジュ(とマグリット)と、奥で食事をする家族たちの間の空間的な差異を際立たせているのだ。このような「圧倒的に正しい」演出には思わず「そうそう!こうだよね!」と頷くほかあるまい。
あるいは二人がついに顔を合わせるシークエンスでは、「映画を見たあとでは何もかもが自然に起こる」という素晴らしいナレーションに続いて、二人が出会い、そしてカフェに入っていく。すると画面奥に「Cinema」と書かれた映画館の看板が映り込む。こんなに泣ける演出があるだろうか。
クロード・ミレール、クロード・シャブロルら同様、老いてますます瑞々しさを発揮する魔術師アラン・レネの、怒涛の傑作である。
2012年9月29日土曜日
エージェント・マロリー
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
これはちょっとなー・・・。完全に確信犯である事をわかったうえで、それでも浜辺のシーンはまるで学生映画みたいだ。何やってんだとしか言いようが無い。
電話の相手がマロリーだとわかりカッと目を見開くユアン・マクレガーとか、あるいはバルセロナでジーナ・カラーノが延々と敵を追うのを延々と追ってみたりとか、まぁいろいろ面白いような気もするが、総じてこれは単なる「スタイリッシュ・アクション( )」って感じである。こんなんダメであるw
これはちょっとなー・・・。完全に確信犯である事をわかったうえで、それでも浜辺のシーンはまるで学生映画みたいだ。何やってんだとしか言いようが無い。
電話の相手がマロリーだとわかりカッと目を見開くユアン・マクレガーとか、あるいはバルセロナでジーナ・カラーノが延々と敵を追うのを延々と追ってみたりとか、まぁいろいろ面白いような気もするが、総じてこれは単なる「スタイリッシュ・アクション( )」って感じである。こんなんダメであるw
2012年9月25日火曜日
つぐない
監督:ジョー・ライト
大傑作!と言ってしまおう。例えば18歳のブライオニーを、なぜシアーシャ・ローナンに続投させないのか、とか、時制いじるのは無駄じゃね?とか、最後クドくね?とか、まぁいろいろ文句はつけられそうな映画ではあるが、しかし僕はこの映画を全面的に擁護してしまいたい。なぜか。それはすべてのシーンを全力で演出する心意気、つまり決して「ストーリーテリングでは終わらせん!」という映画作家としての気合いをしかと受け止めたいからだ。
水中に潜るという運動の反復、ブライオニーの視点ショット(噴水、図書室、玄関前)、浜辺の見事なシークエンスショット。セシーリアのタバコの吸い方、湖へ飛び込むフルショット、海岸で佇む逆光で黒く染まったセシーリアと海の見事なコントラスト、ロビーが靴を拾いにいった先で大量の死体を発見するシーン。セシーリアとロビーが再会した際の二人の手の動きを捉えたショット(前半部分で机の下で手を重ねるシーンとの見事な対比!)。
あるいはロビーがブライオニーに手紙を渡すため彼女を呼びつけるシーン。物語上は単にブライオニーを呼びつける→ロビーが手紙を渡す、というだけの「すじ」でありながら、ここではブライオニーがロビーのところへ走っていくまでの過程をすべて見せる。その過程で水たまりをひょいとかわすブライオニーをしっかりと捉える点に「演出」を感じる。
このように数え切れない豊かな細部が時に時制を超えて、物語上の視点を超えて、次々と繰り出され、その最終的な映画の構造が明らかにされるとき、その一つ一つのシーンの「真実」は意味を失い、ひたすらイメージの戯れだけが残る。
大傑作!と言ってしまおう。例えば18歳のブライオニーを、なぜシアーシャ・ローナンに続投させないのか、とか、時制いじるのは無駄じゃね?とか、最後クドくね?とか、まぁいろいろ文句はつけられそうな映画ではあるが、しかし僕はこの映画を全面的に擁護してしまいたい。なぜか。それはすべてのシーンを全力で演出する心意気、つまり決して「ストーリーテリングでは終わらせん!」という映画作家としての気合いをしかと受け止めたいからだ。
水中に潜るという運動の反復、ブライオニーの視点ショット(噴水、図書室、玄関前)、浜辺の見事なシークエンスショット。セシーリアのタバコの吸い方、湖へ飛び込むフルショット、海岸で佇む逆光で黒く染まったセシーリアと海の見事なコントラスト、ロビーが靴を拾いにいった先で大量の死体を発見するシーン。セシーリアとロビーが再会した際の二人の手の動きを捉えたショット(前半部分で机の下で手を重ねるシーンとの見事な対比!)。
あるいはロビーがブライオニーに手紙を渡すため彼女を呼びつけるシーン。物語上は単にブライオニーを呼びつける→ロビーが手紙を渡す、というだけの「すじ」でありながら、ここではブライオニーがロビーのところへ走っていくまでの過程をすべて見せる。その過程で水たまりをひょいとかわすブライオニーをしっかりと捉える点に「演出」を感じる。
このように数え切れない豊かな細部が時に時制を超えて、物語上の視点を超えて、次々と繰り出され、その最終的な映画の構造が明らかにされるとき、その一つ一つのシーンの「真実」は意味を失い、ひたすらイメージの戯れだけが残る。
2012年9月24日月曜日
デーモンラヴァー
監督:オリヴィエ・アサイヤス
近景の美学とでも言うべきか。被写界深度をうんと浅くして、人物と空間を完全に切り離し、物事の推移を決してクリアには見せない。それでいながら、画面はひたすらゴージャスな印象を与える。それは例えば一瞬のロングショットの切れ味(終盤のヘリコプターのショット!カーチェイスの俯瞰!)であり、あるいは創意に満ちたクローズアップの数々(コニー・ニールセンとクロエ・セヴニーの車でのシーンなど)による。
つまり、極めて狭い範囲に被写体を絞りつつも、その被写体はそこらへんの映画の画面の数倍豊かさに満ちているわけだ。
この「掴み」があるからこそ、逆にこのような浅い被写界深度でしか表現できない数々の芸当とでもいうべき演出が堪能できる。とりわけ冒頭の空港での見事な長回し、人物の配置、そして女同士の殴り合いのものすごい密度、暴力性。
砂漠のシーンはほとんどストーリーが意味不明であるにも関わらず、次に何があっても「オッケー!いくらでもついていくよ!」と言いたくなるような、完全に「突き抜けて」しまっている。このような体験は極めて稀有だが、いやしかしこれぞ映画を見る喜びだ。
※個人的な好みを言えば、これほどホテル、レストラン、ガラス貼りの高層ビルといった映画的シチュエーションであれば、やはりロングとフルショットと奥行きの深い画面が見たかったと言いたいところだが、しかしそれではここまでの狂気性は出なかったに違いない。
近景の美学とでも言うべきか。被写界深度をうんと浅くして、人物と空間を完全に切り離し、物事の推移を決してクリアには見せない。それでいながら、画面はひたすらゴージャスな印象を与える。それは例えば一瞬のロングショットの切れ味(終盤のヘリコプターのショット!カーチェイスの俯瞰!)であり、あるいは創意に満ちたクローズアップの数々(コニー・ニールセンとクロエ・セヴニーの車でのシーンなど)による。
つまり、極めて狭い範囲に被写体を絞りつつも、その被写体はそこらへんの映画の画面の数倍豊かさに満ちているわけだ。
この「掴み」があるからこそ、逆にこのような浅い被写界深度でしか表現できない数々の芸当とでもいうべき演出が堪能できる。とりわけ冒頭の空港での見事な長回し、人物の配置、そして女同士の殴り合いのものすごい密度、暴力性。
砂漠のシーンはほとんどストーリーが意味不明であるにも関わらず、次に何があっても「オッケー!いくらでもついていくよ!」と言いたくなるような、完全に「突き抜けて」しまっている。このような体験は極めて稀有だが、いやしかしこれぞ映画を見る喜びだ。
※個人的な好みを言えば、これほどホテル、レストラン、ガラス貼りの高層ビルといった映画的シチュエーションであれば、やはりロングとフルショットと奥行きの深い画面が見たかったと言いたいところだが、しかしそれではここまでの狂気性は出なかったに違いない。
2012年9月21日金曜日
ロルナの祈り
監督:ダルデンヌ兄弟
手持ちカメラによって被写体を一見無造作に撮ることで、「リアルに」見せつつ、決して心理的に本当らしくなく、ひたすら歩いたり走ったり抱きついたりという運動を鮮やかに撮ってみせた『ある子供』に対して、この映画はいささか窮屈な印象を受ける。
僕にはこの映画のほとんどの画面には驚きがないと思う。
それは例えば病室でロルナが頭を壁に打ち付けるシーンを見ても、「過剰なリアリティ」が運動そのものの「光景」を上回ってしまっている。このシーンには画面の強度が、運動の軽快さがない。あるのは「まるで本当に頭を打ち付けているのではないか」という映画そのものとは無縁の驚きだ。
逆にロルナがクローディに水をやるシーンのワンショットはすごい強度だ。室内照明が嘘みたいに調和し、深いコントラストをつくりだし、ロルナがクローディに水をやる構図が、まるでひとつの絵画のように浮き出ている。
ラストにしても、これが映画的に優れているとは全く思えない。
森の駆け抜けるシーンがあるが、残念ながら駆け抜け方がつまらない。
想像妊娠をしている女性の強迫的な行動を撮っても、その行動を映画的に切り取ることができていないので、物語的な意味しかない。
手持ちカメラによって被写体を一見無造作に撮ることで、「リアルに」見せつつ、決して心理的に本当らしくなく、ひたすら歩いたり走ったり抱きついたりという運動を鮮やかに撮ってみせた『ある子供』に対して、この映画はいささか窮屈な印象を受ける。
僕にはこの映画のほとんどの画面には驚きがないと思う。
それは例えば病室でロルナが頭を壁に打ち付けるシーンを見ても、「過剰なリアリティ」が運動そのものの「光景」を上回ってしまっている。このシーンには画面の強度が、運動の軽快さがない。あるのは「まるで本当に頭を打ち付けているのではないか」という映画そのものとは無縁の驚きだ。
逆にロルナがクローディに水をやるシーンのワンショットはすごい強度だ。室内照明が嘘みたいに調和し、深いコントラストをつくりだし、ロルナがクローディに水をやる構図が、まるでひとつの絵画のように浮き出ている。
ラストにしても、これが映画的に優れているとは全く思えない。
森の駆け抜けるシーンがあるが、残念ながら駆け抜け方がつまらない。
想像妊娠をしている女性の強迫的な行動を撮っても、その行動を映画的に切り取ることができていないので、物語的な意味しかない。
2012年9月20日木曜日
小さな泥棒
監督:クロード・ミレール
冒頭、車が画面を横切ると同時にシャルロット・ゲンスブールがスキップ気味で道を渡るカットが、この作品の良さを凝集してる。とっても安定したカットと編集で組み立てながら、人物たちの動きに遊び心がたっぷりあって、物語ではなく人物のアクションを見る喜びに溢れている。
一時拘留されていたゲンスブールを伯父が迎えにきたシークエンスがとても好きだ。ゲンスブールは一度万引きが発覚して伯父が怒鳴りちらしたばかりだ。今回もそのような展開になると思いながら、拘置所の門から二人が出てくる様子を見る。すると伯父は怒鳴りちらすというよりは、半ば呆れ気味にゲンスブールのお尻を蹴っ飛ばす。そしてゲンスブールがそれに「何すんの!」と怒る。そんなノリで二人が家に帰っていく様をロングショットで捉えた夜の美しさね。こんなに優しさに満ち溢れた演出ってあるんだろうか。
地味ながらこれは相当すごい作品だと思う。
冒頭、車が画面を横切ると同時にシャルロット・ゲンスブールがスキップ気味で道を渡るカットが、この作品の良さを凝集してる。とっても安定したカットと編集で組み立てながら、人物たちの動きに遊び心がたっぷりあって、物語ではなく人物のアクションを見る喜びに溢れている。
一時拘留されていたゲンスブールを伯父が迎えにきたシークエンスがとても好きだ。ゲンスブールは一度万引きが発覚して伯父が怒鳴りちらしたばかりだ。今回もそのような展開になると思いながら、拘置所の門から二人が出てくる様子を見る。すると伯父は怒鳴りちらすというよりは、半ば呆れ気味にゲンスブールのお尻を蹴っ飛ばす。そしてゲンスブールがそれに「何すんの!」と怒る。そんなノリで二人が家に帰っていく様をロングショットで捉えた夜の美しさね。こんなに優しさに満ち溢れた演出ってあるんだろうか。
地味ながらこれは相当すごい作品だと思う。
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